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情報がタダで降ってくると思うなよ

 と言いたくなる案件がこのところ多くなりました。

 一定方面の情報が早かったり、流通している情報から「きっとこういう見立てだろう」という読みができてそれが一定の確度で当たるのは、当事者双方から事前に話が聞けているからです。

 当然に、本当に重要なことは表に出ていないのは仕方のないことですし、それでも国内も海外もメディアで誠実に頑張っている人たちは正しいことを早く読者に提供しようと頑張っているのですから、相応にそういうものを読み込むだけでも、充分に全体の「流れ」は掴めるのではないかなと思います。ただ、そこからさらに頭一個出ようとか、より確度の高い情報が欲しいとなれば、自分で飛び込んで見聞きして感触を掴んでおくか、それ相応にお金を使ってそういう方面にしっかりとアンテナを持っている人を雇うかぐらいしか方法はないんですよ。

 結果として、空売りファンドが先回りしてあれこれ買い上がっていたのだとか、先に手を回して利益を出せるよう手配したのだ、などという陰謀論が跋扈することになるわけですけれども、私のいままでの経験でいうならば、株券印刷業のようなハコ企業でもない限り、あまりそういう問題は一部上場企業や大口ファンドが出入りするようなところでは起きないんじゃないか、というのが正直なところであります。

 一般論になりますが、誰もが本当のことを知りたいし、将来のことを見通したいと思っているんですよ。しかしながら、すべての分野で本当のことを知るなどできることではないし、何が正しいかは事後にならないと分からないことが多いし、ましてや情報を得ていたとしても、その情報について正しく分析し、評価を下すことなどできないよ、というのもまた事実であります。

 例えば、あるディールで紅組と白組がいたとして、どうも対等合併になる手配を進めているようだという情報があったとして、それが正しいとする。もちろん、その情報を得たときにそれが正しいかは分からないわけですが、まあ正しいとして、じゃあその対等合併というのは、紅組と白組のどちらにとって有利で、利益のあるディールであるのかは、その人のセンスによるところが大きいのです。

 もっと言うならば、コップに半分は言った水を見て「まだ半分ある」のか「もう半分しかない」のかはその人の考え方や価値観によるところは大きいのですが、物事を複雑にするのは「自分がどう思うか」ではなく「誰か(または、みんな)がどう思うか、自分が予想する」という美人コンテストになったとき、その物事に対する直接の評価だけでなく、他人からの相対的な評価、客観的な評価もまた趨勢になり得るということです。

 戦争でも、同じ戦死者百人でも千人の軍隊にとっての百名は壊滅的なのと同様、立場によっても当然見え方も変わってくるし、全体の空気みたいなものもある。だからこそ、目の前の赤字が投資フェイズだから大丈夫なのだという人もいれば、いやその投資には結局出口がないじゃないかと評価しない人もいる。

 そういうコンテクストも含めて「情報」なのだとすれば、やっぱりそういうものこそ「タダで与えられると思うなよ」と感じずにはいられませんし、いろんな人との交流の中で得られる「評価」こそ情報の価値の源泉であるということにも気づくのです。もちろん、ガセネタであることもあるんですけど、みんな裏はとりに行くわけじゃないですか。で、みんな裏を取り合った結果、だいたい概ね「世間ではこういうことが起きているはずだ」というコンセンサスになっていく。それが本来の情報であり知ることの価値であり、同時に怖さでもあるということだと思うんですけどね。

 そして、情報には哲学がいると私は思います。

 例えば、香港で民主化デモがあって数名の死者が出たとする。民主化デモごときで死んでしまうなんて馬鹿だなという人もいれば、尊い闘争の果てに身を捧げて命を散らした若者の無念に思いを馳せて胸が締め付けられる思いをする人もいる。

 これこそ、価値観、思想の問題であって、ある意味で思想のない人は「何死んでんだよ」とか「そんなの安全なところに逃げてそこで働けばいいだろ」という話になります。もっと上手に生きろという人ほど、いまある自分にはどうにもならない問題に取り組むだけ無駄だという価値観を持つのです。

 一方で、社会には流れがあり、コンテクストがあります。これを無視して社会における価値を語ることなどできない。民主主義であれ表現の自由であれフェミニズムであれ、コンテクストがあり、アクションがあって、コンセンサスができるというプロセスを持ちます。それの繰り返しである以上、人間には「これは譲れない」というものがあったり「ここを守りたい」という考えが出たりするんですけど、相手の立場を理解したり共感したり、賛成でも反論でも構築できるのは自分の価値観や思想をしっかり持っている人たちだけなんですよね。

 自分はどういう思想をもっているんだっけ、何を理想として人生を送っているんだっけ、という振り返りがもっと自然にみんなできるようになってくると、いろんな共感の輪が広がったり、相手の人格を否定することなしに意見を戦わせ、社会をより彩深いものにしていけるんじゃないかと思うんですけど、どうなんでしょうか。


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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント