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自分にしか、できないこと

 周囲を見渡してみて、ああこれは処理するのが私の役割なんだろうなと思うことが、年に何度かある。

 話は大きくても小さくてもいい。

 例えば、家庭の中で物置の少し高いところにしまうスーツケース。家内や家族たちとの旅行で思い出が詰まったスーツケースをしまうとき、ああ、楽しかったなと思う気持ちと、次に家族で出かけられるのはいつかな、という現実の先の見通しとが交錯する。

 しかし、世の中は良いことばかりではない。

 むしろ、楽しいことをやるために、その何倍もの面倒くさいことに立ち向かわなければならない。面倒くさい。面倒くせえんだよ。この面倒くささとの闘いこそ、人生の本質ではないかと思う。気が乗らないけど大事なことに取り組んでみて、ようやく、見えてくるものがある。

 しかも、面倒くさいことに直面して処理したとして、成功したり、失敗したりする。当たり前だ、未来のことなんて誰にも分らないのだから。人生の先行きが見えないという漆黒の中で、知識という灯火を焚きながら一歩一歩慎重に歩いていく以外にない。

 そして、いまその聳(そび)え立つ面倒くささの前にいる。ああ、面倒くさい。まったくやる気が出ない。出ないからこそ、意欲を燃やして前に進もうとする。

 なぜ前に進もうとするのか。それは、それを手掛けて前に進むことが、私がこの世に生きた証だからだ。いや、47歳になって、がむしゃらさが自分から失われてなお、かなり明敏に、暗い中から「ああ、これが進むべき道だ」と分かるような気がしてきた。もちろん、慌ただしくし過ぎて脳内が混乱したからこそ見える幻影にすぎないのかもしれないが。

 でも、進むからこそ分かることがある。たとえ転んで怪我をしたのだとしても、いかに面倒くさいのだとしても、どう考えてもこれは私がやらなければ誰も手掛けないであろうという話はたくさん見つかる以上、やらないで放置していたのではこの世に神から生命を授かったことの意味をなさない。

 成功や、財産に安住しないことだ。確かに、他の人に比べれば私の人生はとても恵まれている。ご縁があって一緒になれた家内も、愛情に包まれて世に送り出せた4人の子どもたちも、私の本質からすれば「こんな幸せが私乃身にあって良いものか」と思うぐらいに寵愛を受けている。

 ならば、私が感じる面倒くささは罰として背負うものであり、私は私にしかできないであろうことをやり、人間と人間の紡ぐ絆の中で社会にささやかでも還元し、生命と幸福の代償とできるよう努力するしかないのではないか。

 「生き抜く」とは、そういうことなのだ。

 単に与えられた生命を全うすることに加えて、たとえ、リスクがあったとしても前を向いて、何かを背負い、生命を燃やして進んでいくということ。

 織田信長の愛した敦盛で「人生五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻の如くなり」という一節もまた、短い人生を望むように生きることの大切さを改めて感じさせてくれる。

 たとえ行く先が見えない暗闇であったとしても、進まない理由は、ないのだ。

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント