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事件の証言をするということ

 先日、といってもかなり前ですが、ある事件の証言をしに、とある地方裁判所まで何度か行き、また、しばらく後に高等裁判所に伺いました。

 細かく書くのはよろしくないとのことなので、各方面にお話をして掲載をご承認いただくにあたり、最初記述した文章だいたい7,000字は削りに削られ、ご覧のような字数になってしまいましたが、それでも言いたいことのエッセンスは残っているのでnoteに掲載したいと思います。

 許されるならば、当時残した日記やメモと元原稿を踏まえて完全版をどこかに書きたいという気持ちもありますが、そんなことはやめておけという想いもあって、まだ私の心が整理できていないままなので、えいやでご了承いただいた部分について記します。

<この件を通じてずっと私が思っていること>

 私はこの目で見ていて、また、他にも証言する人がおられたわけでして、その悲惨な事件の真相を知る人間の一人として、証人として呼ばれ、かなりの時間を使って事情を警察署で話し、その内容をもとに知りうる事実について法廷でもお話をしました。

 私自身は弁護士ではありませんが、裁判経験は自分なりに豊富にあります。ただ、それらはほとんどが民事裁判であり、今回のように人々の人生に直接絡むような裁判に出廷したことはそれまでありませんでした。

 それでも、民事であれ刑事であれ、人間の世の中は人間の決めたルールに則って、人間が参画して初めて人間の社会が形成されるものです。人として、この社会に生きる限りにおいては、自分の役割として知ることを語り、正しいと思うことを追求する使命があると思っています。

 そうしたところ、事件当初は複数証人がいたはずが、いざ裁判になってみるとなかなか大変な状況になりました。証人の皆さんにも人生があり、心の平穏や幸福を追求する権利はありますので、その決断一つひとつに対して論評する権利は私にはありません。

<検察も国選弁護人も裁判官も善意で回っていること>

 私は知っていることを語るのみで、原則として、どちらの立場でもありません。ただ、私の知っていることを正確に話すことで、確かに有利だ不利だというのはあると思いますが、検察側も国選弁護人も、単に「仕事だから」というマインドでだけ動いているわけではないことを良く知りました。

 もちろん、思惑はあるでしょうし、人間ですから、所属組織での評価や立場も含めていろんな要素はあるのだと思いますが、私の拙い人生経験から見返しても、関係者すべてが一定以上の誠実さでこの裁判、問題に取り組んでいるということは良く分かりました。少なくとも、この事件においては。

 そこにあるのは、日本の司法制度をどうにか良い形で回していきたいという善意が含まれていただったろうと思います。

 社会的に重い事件ということもあり、真実を明らかにしたいという考えは私にもありましたし、今回に関しては「ストーリーありき」のような先入観もなく、淡々と事実検証が行われ、意味のある形できちんと裁判が進行したというのは、日本の司法制度について「きちんと守り、誠実に対応して信頼を得られるものにするのだ」と考えている関係者が多かったのは、証言した私としても良かったと感じます。

 これが、組織の人事だ各位の評価だとなれば、いろんな思惑が出てきてあれこれあるのかもしれませんが。

<司法制度は参画することで成り立つ>

 事件について触れながら見解を述べることは望ましくないとのことで、一般論になりますが、やはり相応に開かれた司法が適切に運営されるにあたっては、単にこれを司法制度を運営していくためのコストとするのではなく、国民の司法への参画する意識や、理解しようとする気持ちの問題であろうと強く思いました。

 やはり、一般社会で普通に穏やかに暮らしている国民にとっては、とてつもない事故に巻き込まれたり、望まない問題に接してしまうことで、戸惑い、拒絶することもまたあると思うのです。凄惨な事件であるほど、それに立ち会ってしまった当事者が精神に衝撃を受け、フラッシュバックをしてしまい、悪夢に苛まれて心の平安をかき乱されることはあるのかもしれません。

 それでも、心を整理して、事実に向かい合い、参画していかなければ社会に正義は実現できず、秩序は保つことができません。事実は事実としてきちんと正確に話すことで、事件が起きたときにきちんと公正に裁かれるのだという信頼を社会に植える作業は、国民にしかできないことだと思うんですよね。

 いろいろありましたが、時間も経過し、関係者間での調整も終わったという報告がありましたので、ようやくこの記事も日の目を見ることができました。それまでに、どれだけの関係者の時間が使われたのかは分かりませんが、ひとつの事件が発生から曲がりなりの解決まで見ることができたというのは、私個人の大きな価値となりました。某君については適切に反省し、きちんと刑期を務めあげて贖罪してまた再会できる日を待ちたいと思います。

<最後に>

 かけがえのない人生がいくつも失われたことについては、残念でなりません。私もいまでも嫌な汗をかきます。友人として、何かできることは無かったか、自問自答することもありますが、何よりも、犠牲となり神に召された方々の魂の平安を祈ります。

 某君にも、その残る人生にささやかでも幸福があってほしい願います。

<蛇足ながら補記>

 数年前、事件を伝える新聞記事を見ました。

 社会の多くの事象を取り扱うメディアにおいて、小さな短い記事で人生や事件が総括されてしまうというのは、これはこれで「仕方のない残酷」という風にも思いますが、割り切れない気持ちもあります。

 本当に、これで終わったのだろうか、というのは、判決文の内容を伝え聞いたときにぼんやりと思ったことです。その後、関係者から丁寧なご連絡をいただきましたが、人は、こうやって時間のさざ波へ溶けるように消えていって、振り返ってもおぼろげにも見えない闇の中へ消えていてしまうものなのだろうか、そして私も、いま世にある人も、いずれ塵のように消えていく運命にあるのだとするならば、せめてその秋が来るまでは自分なりの誠実を抱いて生きていくしかないのだろうなと思うのです。

 誰にとっても、良い人生を。

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山本一郎(やまもといちろう)
神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント