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「嫌いな神田うの」が幸せそうにスキー場にいるので叩くというネットの心理学

 神田うのがスキー場で写した写真をInstagramに掲載していました。

 最初私はこれを見たとき思ったことは「神田うのも楽しそうでいいなあ」です。そして次に襲ってきた感情は「私もスキーしたいなあ」、そして「ちくしょう、神田うのはスキーして楽しそうなのに、なぜ私は薬局で中国人の皆さんにまみれてトイレットペーパーを買うためにレジ前で並んでいるのだ」です。

 トイレットペーパーがね、ねえんだよ。

 無いから買いに来たのに、薬局に行ったら「トイレットペーパーはおひとり様12個入り1個まで」の張り紙があるのです。なに、そのトイレットペーパー購入を煽る紙は。そういえば、トイレットペーパーが品薄になっているとニュースになっていたけど、いまはオイルショック直下とかなんですかね。

 そういう残念な時間帯に神田うののInstagramを見ると「チッ」と思うのは嫉妬でしょうか。そりゃスキーぐらい自由に行きたいんですけど、子どもは塾だし赤ちゃんいるし、家内は忙しくしてるし私も介護があるしで、身動きが取れないんですよね。お手伝いさんを呼んできて家事は捗っても、子どもの勉強だけはどうにもなりません。おら、お前ら勉強しろ。

 自宅に帰ってきて、さっそく買ってきたトイレットペーパーを使うべく汚物をぶちまけていたところ、今度は日刊サイゾーが記事にしているんです。

 いや、そこまで批判殺到ってほどでもねえだろ。ただ、神田うのに対する感情が冷めている人は、幸せそうにしている神田うのを羨ましく思い、自由にスキーに行けない自分と見比べて「クッソ。神田うのごときが」と感じるというだけではないかと。

 ただInstagramでは最初はコメントでボロクソに批判されていたのに、記事になっているので再訪してみたら綺麗さっぱり暴言は削除されていました。なんで消したんだろ? まあいちいちスクショ晒すようなことは私もしないけど。

 この手の話は、「こういうご時世なのだから、むしろ閑古鳥が鳴いてしまっているスキー場に足を向けてお金を落としていくのも社会全体にダメージがいかない方法の一つ」という理性的な対応と、「どうして自分は冴えない日常生活でつまらない時間を送っているのに、神田うのみたいな不思議な顔をしたおばさんが私よりも幸せそうな暮らしをしているのかと思うと腹立たしい」という激しく沸き起こる感情とが、まるで暖かい黒潮と冷たい親潮が栃木県沖でぶつかって底流から栄養素を多数含んだ海水が水面まで巻き上げられ植物性プランクトンが大量発生し、それを求めてお魚が沢山やってきて一大漁場となるというようなネット社会のダイナミズムを体現していると思うんですよ。

 そういう大漁旗を掲げて日刊サイゾーがおいしく広告収益を戴いていく問題については、今度はネットの中で「クソみたいなネタでPVを稼いで金儲けしているクソメディア問題」へと話題が移り、Twitterを見ていると「別に神田うのがスキー行こうがいいじゃねえか。たいした批判もねえのに炎上とか煽って儲けようとするな」という批判が日刊サイゾーに容赦なく寄せられます。

 たぶん、神田うのという大海原で、神田うの叩きというクソコメントなる植物性プランクトンを食べに漁場に来たイワシである日刊サイゾー、今度はそのイワシを狙って回遊しているTwitterユーザーがマグロのように漁場に君臨し、食物連鎖の大スペクタクルを構成しているんだと思うんですよね。

 それだけ神田うのという存在の大きさが際立つ事件であるし、神田うのという名前を聞いただけでどんな話題でもイラつく匿名ピープルの気持ちは報われることはないのでしょう。

 コロナウイルスで社会全体が暗くなり、なんとなく自粛モードが強まる中で「神田うのごときが」と思う率直な人たちは、最終的に綺麗事をばら撒くアカウントに吸収されていくのだなあと感動しました。

 やっぱこう、どうでもいい話題って最高ですよね。

 私も踏ん張っている時間を有意義に過ごすことができました。

 神田うのさんには、私に快便を与えてくれたこと、深く感謝申し上げます。

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント