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補助輪論(ほじょりんろん)

弟の子ども、つまり甥っ子に会った。
彼と会うのは2年ぶりで、すでに5歳。
3歳の彼と5歳の彼は当然ながらもう別人で、人間という動物の育ちっぷりに改めておどろいた。

そんな彼が、現在乗っている自転車を新しく買いなおしたいという。

今の自転車の補助輪をはずすか、補助なしの自転車を買うのか、父親である弟は悩んでいるそうだ。
いいね、親っぽい!
最近では補助つきの自転車に乗るたびに
「あたらしいじてんしゃかってー!!!!」
と、ごねて泣くらしく、今回もギャンギャンに叫んでいた。
そのシャウトに慣れっこの弟は、次のボーナスな!と笑った。

そもそも子どもが好きではない私は、ギャン泣きする甥っ子をなだめるわけでもなく、当然「私が買ってあげよう」ともならず、目の前で彼の補助輪付き自転車にまたがった。
「そんなにいらないなら、わたしがいただく」
甥は一瞬泣き止んだが、走り出した私(とチャリ)を見て、わざとらしく声をはりあげて、また泣いた。

そのままニヤニヤと、自転車に乗ったまま立ち去ろうとしたが、これが見事にうまくこげない。
補助輪付きの自転車をなめていた。
ただ漕げば走るはずなのにそれができず、とる必要のないバランスをとろうとハンドルを小刻みに動かし、結果ぐねぐねとした気持ち悪い走行になっている。

その瞬間わかった。
大人になるということは、補助輪なしの自転車なのだと。

バランスなんて考えず、ただ行きたい方向に力いっぱいこいでいればよかった補助輪時代。
その補助を外すには、「バランス」をとり続けながら走れるようにならなければならない。
転んで、転んで、泣きつかれたころ、ふっと乗れるようになったあの瞬間、私たちはバランスをとることを体で覚えたのだ。

しかし一度バランスをとった乗り方を覚えてしまうと、補助輪付きの自転車には戻れなくなる。
ただまっすぐにすら走れなくなるのだ。
もう戻れない、無邪気だったあの頃・・・ である。

でも、補助輪をとった自転車ならば、より遠くに、早く、静かに行けるようにもなる。
物理的にも親から遠く離れられる。
なによりすでに補助なしの自転車で走りまわっている友だちと、遊びに行けるようになるのだ。
それは自由であり、世界が広がるということ。

「バランスをとるということを知っている」ことが大人なのだ。

私はちょっと遠い目をしたまま、うるさく泣きわめく甥っ子の元まで自転車を押した。
こいつ、大人になる気なんだな・・・
苦笑いする弟に「まだしばらく補助輪でいいんじゃない?」といじわるを言いつつ、持ち主に返却した。

いただいたサポートは、現在ですとシルバニアの赤ちゃんかマウントレーニアのクリーミーラテになり、私がそうとう幸せになります♥