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文化に合理性は求められていない

昨日から引き続き、大学院の自主ゼミの話題。ある議論のなかで、「文化に合理性は求められていない」という話をした。例えば、日本人は初詣と称して正月にお参りに行く。でも、なぜお参りに行くかと問われたら、答えるのは難しいだろう。それが日本の正月の風習だから、古来から続く文化だから、たくさんの願いごとを叶えてほしいから、家族が行くと言っているから…これらの答えは、合理性という観点からしたら合理的ではない。

合理性の観点から考えてしまうと、そもそも神様はいるのか、なぜ願えば叶うのか、どうして5円玉という人間が作り出したものをお賽銭として投げるのか…だとといったどうでもいい疑問が頭に浮かんでくる。初詣に行くことを頑なに否定することは当然できない。

一方で、政策や経済には合理性が求められる。教育も合理性(特に経済合理性)を求める声が日に日に増大している。それを跳ね返すためのロジックとして、「これは文化である」と表明すると、途端に合理性の波が打ち返されるような気がするのはなぜか。

文化の中に根付いている一見すると非合理的な行いを、一方的に否定することはできない。時代性や地域性といった背景が共有されていないから批判することができるのだ。そのムラにはそのムラの文化がある。それを尊重せずに切り捨てることはできない。

だからこそ、新たな変革をもたらすものは、そのムラの文化を学ばなければならない。そして、正すというよりは発展させるために必要なことを考え行動に移すのである。
変革の主体はそのムラにいる人々である。その視点を忘れてはならないなと改めて考えさせられた。


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