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存在感

夏休みが始まった。子どもたちが休みのときこそ、僕らのような人たちは働かなければならない。今年もありがたいことに多くのワークショップ講師の依頼を頂き、7月末には1週間連続でどこかでなにかしらをやっていた。ここ10日ほどの現場(なぜかワークショップのことを現場と呼びたがる界隈の性)を分析すると、子どもを対象としたものが9回、大人を対象としたものが4回だった。

僕はもともと子どもたちと一緒にプログラミングをすることが楽しくてこの業界で活動を始めた。日々の CoderDojo でも子どもたちが作るものはおもしろいなぁと思うし、僕自身も一緒に作品を作ったりしてる。ちょっとした工夫を見せた時の子どもたちの反応を見るのは楽しい。そして、それを超えてくるものを見せてくれた時はもっと嬉しい。やはり僕の原点は子どもたちとの関わりの中にあるのだろう。

一方で、世間的なプログラミング教育の盛り上がりと必要性の高まりによって先生や保護者といった僕から見たら大人の人たちに、プログラミング教育とはなにかについての話をする機会も増えている。たまたま2013年くらいから(中学生のときのことも入れたらもっと前くらいから)この業界の片隅のほうにいたおかげで、多くのことを間近で見てきたしたくさんのことを学ぶことができた。次は僕が皆さんに伝える番である。どこか義務感のようなものもある。
こちらはこちらでまた別の楽しみがある。なんだこの年齢不詳な若者は、といった具合のリアクションをされていた方々が話を聞いていくなかで徐々に認めてくれたときだったり、僕の話がきっかけでプログラミング教育の世界に入ったんですと言われたり。微力ではあるが少しは人の役に立てているのかもしれない。

先日とある方とミーティングをしていた時に、僕の持っている"価値"の話になった。その人いわく、教育を真剣に考えて行動してアウトプットとして授業そのものが作れたりできたりすることは、なかなか他の人にはできないらしい。正直まったく気づいていなかったし、まだまだだなぁと思う場面は多々あるが、やはり人からこのような形で言ってもらえるのは嬉しいことだ。と同時に、僕なんかよりずっとすごい先生(広義の意味)たちをたくさん知っているので、ああ変な誤解をさせてしまっているのかもしれないとも思った。

正直、自分の価値がよくわからない。たくさんの機会を頂いて人の前で話すことは多いし、その度に感謝されることもあるが、僕が話した内容の多くはインターネットで調べたり本を読めばある程度はキャッチアップできるだろうし、強いて言えば僕の経験からきている話については難しいかもしれないけど自分で子どもたちとプログラミングやってればある程度は同じような経験をすることができるだろう。なにが違うのだろう。ひょっとして違いなどないのかもしれない。

先日、大学の同期たちに教員採用試験の対策講座の一環でプログラミング教育について授業をした。二次試験が目の前に迫っていることもあってかみんな真剣に聞いてくれたし、Scratchを使ってA分類の体験をしてもらったが、楽しそうにやっていた。
でもふと、自分は彼ら彼女らと同じだけ生きてきたにも関わらずなぜこっち側にいるのだろうと思ってしまうときがある。上で書いたように、ただただ僕は楽しく子どもたちと(語弊はあるが)遊んでいただけだったはずなのだ。ただの大学生が授業をしている(できてしまう)現状は、この業界の逼迫された空気感を表しているのかもしれない。

「普通」とはなんだろう。僕にはよくわからない。「君は普通じゃないね」と言われるたびに「ああそうか、僕は普通じゃないのか」と再認識する。僕はいたって普通だと思ってるんだけど。

僕の敬愛してやまないアーティストであるKREVAは、『存在感』という曲の中で次のように言っている。

存在感がある
存在感はある
この「が」と「は」でだいぶ変わる それはわかるだろう
お前は確かに頑張ってる でもやっぱりそれだけじゃだめ
周りは結果で判断してる なら目に見える形を出せってこと

これは多くの頑張っている人たちに刺さる内容ではないだろうか。それなりに頑張っていればその業界やコミュニティのなかでの存在感は出てくるが、目に見える形で結果を残せているだろうか。

日々忙しくいろいろな仕事をしているし、自分の中からアウトプットされるもののクオリティは毎回上がっているとは思う。しかし、大枠はなにも変わっていないような気がしてならない。僕の代表作はなんだろう。

時々、本当はなにをしたいのかわからなくなるときがある。インタビューを受けたり、人から尋ねられた時に答える「模範回答」のようなものはあるが、それが本当にやりたいことなのかどうか確信を持って断言することは難しい。
僕はある事柄について深く考えることがとても好きなのだが、一度ハマるとなかなか抜け出すことができないのがたまに傷だ。

書いていてすごく暗くなってしまったが、今がたまたまそういう気分なだけで、日々楽しく過ごせているのも事実だ。僕の中にある二面的な性格の片方を言葉にしてみたいと思った。ただそれだけだ。

言葉にすることはとてもいいことだと思う。言葉とは人類が生み出したものの中でもっとも偉大なものの一つだ。私たちは言葉を媒介として思考する。そして、その思考が進むと自ら新しい言葉を生み出す。
ただし、その代償として私たちは言葉に支配されているとも言える。言葉で表すことができないものを嫌う。

1人の教育に携わる者として、自分の口からでる言葉は大切にしたいと思う。子どもたちの前で話すときであろうが、大人の前で話すときであろうが、しっかりとした言葉で語っていきたい。それに加えて、一挙手一投足に至るまでに自然かつ綿密さが溢れ出るかのような。

むしろ黙ってても ただ立っていても
その人の中にある なにかが 語り出すような
そんな存在であれ

1日2日でなれるものではない。何年、いや何十年とかかるかもしれない。日々の成長の積み重ねによってしか成し遂げることができないのだ。でもいつかたどり着きたいと思う憧れだ。

これはポエムなのか。はたまた乱文なのか。たまにはこういうことを書くのもいい。いいリフレッシュになった。人様に見せるようなものではないかもしれないけど、あえて公開してみよう。

宮島衣瑛です!これからの活度のご支援をいただけると嬉しいです!