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授業におけるICT機器の位置づけをめぐる攻防

本記事は大学院の授業で書いたレポートを一部加筆修正したものになります。

 本稿では、石井順治『続『対話的な学び』をつくる 聴き合いとICTの往還が生む豊かな授業』ぎょうせい 2021 にて紹介されている事例を基に、授業におけるICT機器の位置づけについて考察していくことを試みたい。

ICT機器については、GIGAスクール構想により1人1台端末と高速ネットワーク通信環境の整備が全国一斉に急激に進んでいる。導入されるのは端末だけではない。この改革はハードウェアと同時に教育や授業という営みのマインドセットを根本から変革することができる力を伴って進行している。よって、授業や学校生活におけるICT機器の位置づけをどこに置くかによって、得られる効果は大きく異なってくる。

ICT教育を取り巻く言説の一つが「ICT文具論」や「道具としてのICT」論である。ICTはあくまでも道具の一つであり、教授のツールではなく子どもが紙や鉛筆と同じように学びの道具として使われるべきであるとするこの考え方は、特にこれまでの教育に深く関わっている論者を中心に支持されている。本書で著者が主張しているのもまさに、学びの道具としてのコンピュータの像である。例えば、筆者はICTがもたらす教育について「人間性の育ち、学びの深まりが大前提としてある」とし、「学校における授業は、課題、探究、対話的学び・聴き合いの3要素が関わりあって深まる」と述べ、「コンピュータを有効に活用する学習と、活用しない活動・思考を、どのように組み合わせるか、そしてそれぞれのよさをどのようにつなぎ合わせるか」が大切であるとしている。これらの論調は、これまで学校で行われてきた学びをエンパワーメントする道具としてコンピュータを位置づけており、コンピュータを中心にした授業ということは想定されていないという特徴がある。

先に述べた「教授のツール」としてのコンピュータは1970年代に流行した行動科学に基づく CAI(Computer Assisted Instruction)による学習観がイメージされやすいが、そもそも学びの共同体的な学習観は行動科学への批判を基に成立していることから、ICT活用においても受け入れがたい使い方なのだろう。

本書で扱われている2つの事例でもICTは子どもの学びをサポートする道具に徹していた。6年生の算数の事例では、子どもの思考の過程を共有しやすい形(=デジタルデータ)で扱い、個の思考を全体の思考に昇華させるのに役立っているように見えた。この実践をGIGAスクール以前の教室でやるとするならば、子どもが書いているノートを実物投影機を使って映像として提示するしかなかった。しかし、実物投影機は解像度の問題やブレなどによって判別しづらくなる場面もあった。GIGAスクール以後の授業では、子どもがコンピュータ上で行ったすべての作業過程はデジタルデータとして保存されているため、デコードすることにより解像度の問題をクリアにして共有することができる。これは大きな変化といえるだろう。

また、4年生の社会科では、教師が準備した多くの資料をタブレットの中から自由に閲覧できる状態にしておくことによって、多様なものの見方ができるようになっている。本書でも紹介されている通り、この授業においてコンピュータはあくまでも1つの資料でしかなく、紙媒体である資料集となんの違いもなく使われている点は注目すべきであろう。ある課題に対して気になったことを多様な情報源から調べて自分の考えを構築していくことは、社会科の授業としても、デジタル社会を生きていく上でも重要なスキルであろう。

同様の事例を私自身も目撃したことがある。埼玉県のある小学校で参観した5年生の算数の授業で、子どもたちはプログラミングをして正多角形を作図する課題に取り組んでいた。正方形や正三角形など基本的な図形をクリアした子どもたちは、正五角形の作図に挑戦していた。私は、事前に校長先生からとても困難な子だと聞かされていたある男の子をずっと見ていた。プログラミングをして図形を作図する場合には内角ではなく外角の考え方を使うため簡単に書くことはできない。しかし、規則性に気づけば 360 ÷ 辺の数 = 回す角度 というアルゴリズムを導きだすことができる。彼ははじめのうちは適当な数を入力して試していたが、ふと自分が過去に書いていたノート(写真1)を開き、自分で正六角形を作図したときのことを思い出していた。

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彼のノートには「60 × 6 = 360」と書かれており、これを使えばうまくいくのではないかと直感的に気づいたようで、手で辺の数を数えながらコンピュータに数字を入力した。すると思い通りに画面に正六角形が表示され、満足そうな顔をして私に書き方を教えてくれた。彼の場合もまた、ノートをひとつの資料として使っていた。まさにコンピュータを使った学習活動と教科書やノート、資料集などこれまでの紙メディアによるこれまでの「ベストミックス」が起こった瞬間だ。

しかし、本書の事例として紹介されている授業のようなICTの使い方は、ICTのもつ多様かつ強大な力のごく一部しか使われていないということも同時に強調しておかなければならない。現在のパーソナル・コンピュータの原型を考案・開発したアメリカの計算機科学者であるアラン・ケイは、コンピュータを「メタ・メディア」と表現した。これまでのメディアとコンピュータの最大の違いは、自分自身を使って新たなメディアを生み出せる点にある。コンピュータの本質的な意味は、創造の道具なのである。

コンピュータの本質を創造のメディアと考え、それを教育理論にまで昇華させたのが、MITメディアラボの計算機科学者であったシーモア・パパートである。パパートはジャン・ピアジェの構成主義理論から強い影響を受け、構成主義理論における「同化」と「調整」が起こる過程を人がモノを作る行為の中に見出した。パパートの構築主義は子どもを対象にしたプログラミング教育の礎となり、現在にまで脈々と受け継がれている。

ここで改めて提起したい問題は、日本におけるICT教育においてコンピュータの持つ創造的性格があまりにも軽視されているという点についてである。コンピュータを情報の提示装置として使う実践は1990年代にはすでに多くの学校で行われていた。また、新型コロナウイルス感染症拡大に伴い急ピッチで進んでいるオンライン教育(遠隔教育)も、2000年代前半にはインターネットの普及とともに海外の学校との交流といった形で行われているものが起源といえる。同じように1980年代後半から90年代にかけて取り組まれていたプログラミング言語 LOGO による構築主義的な学びもこのタイミングでリバイバルされてしかるべきであろう。

本書でも紹介されている萩生田文部科学大臣の言う「これまでの実践とICTとのベストミックス」とは、当然教科や単元、学習内容によってミックスされる割合は異なる。しかし、これまでの実践のエンパワーメントのみを探究するとコンピュータの持つ多様で協力な力を完全に発揮することはできない。ミックスされる配分をめぐる攻防がGIGAスクール構想の裏側で起こっている。それは、授業のパラダイム・シフトにとどまらず、学校や教育、社会そのもののパラダイム・シフトにつながる可能性がある。そのときに立ち戻るべきは子どもの学びの質であって、経済的合理性に基づく判断ではない。コンピュータ教育には常に経済との関係性がつきまとう。授業という学校教育の根幹をなす営みから、子どもの学びを第一に考えたコンピュータの位置づけが生まれてくることを願い、研究していきたいと思う。

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