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あつ森から。自分のこと、世界のこと

最近はずっとNetflixやAmazonプライムでアニメやドラマを観ている。こんなにアニメやドラマを見続けているのは多分、15年くらいぶり。15年前っていくつ?つーか、私今いくつ??考えたら泣けてきた。ちょっと考えるのやめよう。

あつまれどうぶつの森

私の今のプレイ時間は800時間くらい。

ひく。自分でもひく。

寝ても覚めても島クリしてた2020。
通勤中もやってた。仕事カバンの中にSwitch入れてるアラフォーワーママってやばい。お迎えの後絶対荷物増えるのに。通勤電車は行きも帰りものんびり座っていけるような混雑具合なんやけど、黒いカバンからSwitchケース出してるの見たら周りもひいてる笑

色んな変遷を経て、今また新たに島を整え出した。
おおがかりな開拓ではなくて、ちょっと整える感じ?800時間もやったのにまだまだ整えきれていないところがあるなんて、もう時間泥棒め!モモもびっくりやで。どうなってるんや?
まぁ、好きなことしてるんやから、ほんまは時間盗まれてないけどな。エンデごめん、関係なかった。気にしてないやろうけど、エンデもう死んでるけど、わざわざ意味ない引用してごめんなさい。言いたかったん。今日MOEの付録で見た時からモモのこと気になってたん。

島を飾る、可愛いものを並べる

どうぶつの森の楽しみ方は人それぞれ。息子は図鑑を完成させる事を楽しんだり、パニーの島で写真をとったりしている。私も家具を並べるのは好きだけど、それよりも島全体を作って飾るのが好きだ。
色んなテイストの家具があるんだから、色々試したいけど、結局、好きなテイストは甘すぎない、シンプル。でも、色はたくさん使いたい。あれこれ目移りしてしまって、やりたい事がまだまだ山積みだけど、体力も時間も足りない。
島をクリエイトするために時間を費やし、肩を凝らせ、金がなくなったと島中の果物とカボチャを売りに出したり、海に潜ったりする。いつまでもやれる。そして頭痛がしていつもやりきれないストレートネック。
河川工事と崖工事にあけくれ、どうしてポケットはこんなに小さいのかと嘆き、木や花を仮置きできない事に苛立っている。
柵を何度も何度も建てては撤去し、組み合わせを変えてはまた建てる。
檻をひたすら作る、並べる、なんか違うと撤去する。やばいリメイクキッドがまた無くなっている。店閉まってるし。
もうええやろ。ええ加減にせぇよ。
そしてぼんやりとNetflixを起動する(爆死)。

でもさ、でもさ。色んなパーツを組み合わせていく作業、すごく楽しい。組み合わせ方は無限に広がる。自分だけの世界を作っていく。
好きな服を着せる。
好きなどうぶつを住まわせる。
可愛いものを飾る場所を作る。飾る。機能を確かめる。
基本的には使えるように飾りたい。椅子なら椅子として座れるように。ベッドは寝られるように。でも、そしたら可愛く飾れない。でも、可愛さだけを追求するんじゃない。だってここは私の分身と大好きなどうぶつたちの「暮らす場所」なんっすよ。道は通れるように。椅子は座れるように。全然座ってくれないけどww(泣いてない!!!)

粗削りな「私の島」ができる

最初に作った島は粗削りだ。まだまだ自然の味わいが残っていて、財力の不足を感じさせる。
この時は、自分の好きな物を一つ一つ思い出しては並べていった時期だ。


そう、好きなものもやりたい事も、自分の気持ちも、何がなんだから解らなくなっていた私は、あつ森にのめり込む事で自分の「好き」を1つずつ思い出していった。

懐かしい
可愛い
カッコイイ
楽しい
嬉しい
欲しい
尊い
えぐい
食べたい
キュン死する
萌える
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛… !!!

私の「好き」は単なる「好き」じゃなくて色んな色や形やテクスチャがあった。
好きは一つじゃなかった。好きにも種類があったんだ。そうだった気がする。思い出してきた!

「好き」を探すためには、ただひたすら自分と向き合う必要があった。すなわち、子ども達へ向けている眼差しを自分へ向ける…と持って回った言い方だけど、まぁつまり子どもらをほったらかしたのだ。
息子が生まれてからずっと、私の生活の中心は子どもだった。主役さえ子どもだった。子どもに合わせて全てが回っていた。
私としては別になりたくてなったわけではない。でも、私の実力から言うと、全てのエネルギーを子どもに向けないと子どもを生きのびさせられなかったのだ。仕方ない。実力がなかったんだから。ついでに運も金もさほどない。全然ないとは言わないけれど。ある方ではないな。
そんな私でさえ8年も経つとやっと「子育て」に慣れてきて、少し目や手を離しても子どもは死なない事が解った。もちろん、今だからできる事だ。去年や一昨年ならこうはならない。目を離したら一気に死んでた可能性もある。子育てってスリル満点すぎて死にそうだ。あっちが死ぬかこっちが死ぬか。闘いの毎日。

で、子どもそっちのけで延々と島と自分に向き合った。

私って何?
好きって何?
あれも好き?
これも好き?
どれが好き?
あれ?尊いの多すぎない?
なにこれエモい。
萌えるー!!
死ぬー!!
もっと飾りたい。
あれが欲しい。
これも欲しい…
いつになったら売りに出るのだ💢!
また同じもんしか売ってねえ泣
疲れた
肩凝った
頭痛い
眠れない
気になる

怒りさえ楽しい。悲しみさえ愛おしい笑
寝食を忘れて、現実も忘れて取り組んだ。
そう、現実もほったらかしだ。仕事のこと、上司のこと、全部ほったらかし。こんな事させてもらって本当に幸せである。

埋もれていたたくさんの物を掘り返す。
私の中が変わっていく。どんどん、どんどんひっくり返されていく。収集がつかない。けど、収めなくちゃ。一つずつ。時間がかかるけどやる。イメージと違ったらやり直す。やり直すためにまたベル💴がいる。足りない、稼ぐ。思ったようにいかない。イメージがそもそもうまく作れない。夢見をしまくる。公開してる人を検索。見る。見る。見る。

デザインをもらう。すごいのいっぱいある!!真似する。いいと思った物をやってみる。とにかくやる。下手くそでもやる。真似してから自分の好きなようにまた変えていく。一つずつ。まどろっこしい。もう3時?!オヤツの時間とちゃうで?

オトナのやることではない…?
いつまで経ってもオトナちゃうしな。これが実力や…バタッ_(┐「ε:)_

「好き」なのに息苦しい

粗削りの世界ができたら、夏が終わっていた。

世間はあっという間に秋で、なんだかんだと言ってまだウイルスはしつこく世間を騒がせているし、私は粗削りの世界ではまだうまく息ができなかった。もっと、酸素を。
前みたいに目の前に現れた色んな「好き」を発掘しているだけではすまなくなってきた。目の前の世界に「好き」はたくさん並んでいる。この世界には私の「好き」が詰まっている。私が作った世界だ。私が作った、私の世界。だけれど、実は誰かを真似た世界。
多分、まだ「私の」世界ではない。まだ私は何も作っていない。

それでも、作ることはやめられない。私が生きてく世界を作らなきゃいけない。真似でも、借り物でも、なんでも。私の中に何もなくても。
できることからやる。今作った借り物だらけのこの世界を少しずつ「もっと好き」に変えていくんだ。少しでも自分の「好き」に近づける。一つ一つのイメージは借り物でも、それを組み合わせるのは私ができることだ。組み合わせながら「好き」な組み合わせを考えていけばいい。


ーどうせ借り物でしょ
と言われたら?
仕方ない。本当の事だから。借りてはいけないものだったとしたら「ごめんなさい」。借りていい物なら「そうなんです。好きなのでお借りしました」。もし、借り物のイメージから私のイメージを作ったならその過程を説明する。みんなに受け入れてもらえなくてもいい。受け入れてもらえなかったら、それはその時。自分が悪いわけでも、相手が悪いわけでもない。全ての人と解り合う事はできない。否定のメッセージをもらうのは悲しいけれど。それを仕方のない事と受け入れていくのはもっと息苦しい作業だ。でも、受け入れていかなければ、この世界で「好き」を感じながら、「好き」を護りながら生きていけない。生きるために引き受けろ、息苦しさを。その中で呼吸をする術を身につけろ。

全部は抱えられないけれど、抱えるだけじゃない

そして年越しも「好き」と一緒に過ごして2021。急激に体も心もついていけなくなる。現実には今回の年末年始は仕事を長く休んで、久方ぶりに一息ついたところ。ライトスティックを振りかざしてカウントダウンした瞬間に疲れがどっと押し寄せたのか。毎年食い入るように観ていたジャニーズカウントダウンも全然集中できない。アホほどアニメやドラマを観まくって過ごす。
インプットや。インプットが必要やったんやな。今なら解る。物語が足りなかった。物語は私のエネルギーだ。生きる糧だ。
仕事再開後は、年末までよりはいくらかマシだけれど、やっぱりなんとなく不調な日々。寒いからなぁ。冬はダメだ。基本、動物が生きる気候じゃない。でも、とりあえずは生き抜かなきゃいけないし。って言うか、さすがにどうやって生きてくか考えなきゃいけない。生きていくのはこの私で、そりゃいくらでも夢は見たらイイけど、現実は霞食って生きていけるわけじゃない。けど、解った事がある。

私が力を抜いて手を抜く事は必ずしも悪い影響ばかりではなかった。

私が子どもをほったらかしたのは前述の通りだが(念のため言っておくと800時間ほったらかしたわけではない)、私が子どもにあれやこれやと指示せず、家事も放り出していたら、仕方なく夫が動き出した。子どもが自分で動くということはなかったけど、子どもは子どもで好きにのびのび過ごしていた。
なーんだ。私ずっと子どもにばかり合わせてなくて良かったんだ。
解ってたけど、解ってなかった。解っててもできなかった。私が色々頑張って家事も育児もしてるのだから、夫にももっと頑張って欲しいと思っていた。でも、なんか違うみたい。「私が頑張ってるからあなたも頑張って」っていうの、自分自身が一番嫌いな思考パターンだった。自分のことは見えないな。
あと、

「好き」ばかりの世界は愛おしいけれど、「好き」の全てを詰め込んだ世界は狭くて息苦しかった。


スペースの限りに「好き」を詰め込みたかった。やってみたら幸せな世界だった。けれど多すぎる。「好き」が渋滞してて、「好き」に「好き」が重なって見えない。「好き」が「好き」に押しつぶされる。「好き」どうしでも殺し合うのだとやっと解った。キャパは全てギッチギチに埋め尽くして使うものではないのだ。私はそういうことをしがちだけど、違うんだ。力の限り、倒れる手前のような力の入れ方は生きるのに向いてない笑 生きていくつもりがあるのなら、キャパをあけておく必要がある。もともと小さなキャパなんやから、私にできる事はほんの少しだけ。つら…泣
みんなそれぞれの事情を抱えながらやっている。世界は広くて、私は小さい。
小さいけれど、私は私だ。私の世界を作っていくのは私だ。

新しい世界のための物語

と、悟ったようなことを言ってみているけれど。やっとここまで思考がたどり着いたばかりで体も心もまだまだ追いついていない。毎日へばっている。
ずっと解っていたつもりの世界の広さも自分の小ささも、思ってたのとまたちょっと違って、こんなに生きててもまだ私は何も解ってないし、作ってないんだと思うとずーんと重い物がある。これからもきっとこんな気持ちになる事があるんだろう。妙な疲労感である。
悲しい事も辛い事もない方がいい。笑ってゆるんで生きていけるならその方がいいけれど、私の性格的にはそうはいかないんだろう。だから私は今日も物語を摂取する。物語は私にたくさんの人生を経験させてくれる。ありきたりな話だけど、物語の中に経験がある。もちろん現実の中にも経験はあるのだけど。けれど、物語は私の知らないものを運んでくる。それはアニメやドラマに限らない。人の話をきいたり、子どもの日々を見守るなかにも物語がある。だから私は人と関わりのある仕事が好きだなって最近また再確認した。デスクに向かって淡々と作業したり、頭の中で相関図を描きながら作戦を練っていく作業ばかりでは心が保たないみたい。

人と話すのが「好き」なんだ。

ずっと知ってたけど、知らなかったこと。知ってたんやけどね。自分のことやけど。でも、こんなにも人と話すのが「好き」だなんて知らなかった。
なーんだ。そっか。なーんだ。

合わない人ももちろんいる。仕方ない。色んな人がいるのがこの世界だから。自分の「好き」だけを集めて暮らすなんてそもそもあり得ない世界なんだなぁ。

だから、まだちょっと万全じゃないけど(寒いからね)、私はまた世界を作っていく。ちょっとずつ。色んな物語を摂取しながら。抱えられる自分の「好き」を選んでいく。抱えられないものを下ろしていく。大丈夫。今は抱えられなくても、本当に必要ならまた出会える。いつか繋がる。再開しなくても大切で好きだった事は変わらない。大丈夫。まだ生きていける。

自分の島で、自分自身と結婚式した笑
新しい門出だー!!

子ども服やポケモン・プリキュアの食玩を買います。あと、ねるねるねるね。