死都東京レポート(日本人であることの悲しさと喜びについて)

 キッチンペーパーが切れてしまったので、日曜日も終わりに差しかかっていたけれど、なければ不便なものであるので上衣を羽織ってドラッグストアへと出かけた。棚はガラガラだった。それを見て困ったなぁと思うと同時に東日本大震災の頃を思い出した。当時も、スーパーやコンビニの棚はガラガラだった。酒だけは売っていたので、苛立ちを鎮めるためにビールをたくさん買った。その時のビールはとても美味しかった。そして、更に昔の平成米騒動のことを思い出す。

 私が高校生の頃、不作のため米の収穫量が足りず、タイ米を輸入して国産米と混ぜたブレンド米が出回るという異常事態が起きたことがある。しかも、こちらの都合で輸入しておいて、ブレンド米は不味いなどと文句を言う状況であった(実際美味しくはなかったが…)。当時好きだったラノベ作家がこのことについてかなり怒っていて、美味しい食べ方だってあるのに、敢えて美味しくない方法で流通させるとはどういうことだと言っていたことを記憶している。こち亀でもそういう日本人の悪いところをユーモアを交えて批判していたことを思い出す(すごく面白い回だった)。私はこの時の申し訳なさが影響しているかどうかはわからないが、今でも時々タイ米を買っているし、タイ料理屋にも足を運んでいる。まあ、単に美味しいからというのが大きな理由ではあるけれど。

 コロナ狂想曲を見聞きすると、皆、あの時のことを忘れたのだろうかと思う。とても卑しいことだと感じるけれども、まあ人間なんてそんなものなのであろう。けれども、日本人はその卑しさをないことにしてしまう傾向があるように思う。「日本人は優しく礼儀正しい」などというセルフイメージは思い上がりも甚だしいが、それを基本として「日本はスゴイデスネー」的番組が未だに作り続けられている。しかもこの手の番組がいやらしいのはそう言わせる相手が大抵欧米人というところにある。そもそも、日本人が優しく礼儀正しいのであれば、ブラック企業も過労死も存在しないだろう。

 自身の内側にある卑しさもっと言ってしまえば悪を意識しなければ、それを制御するのは難しい。そういう意味では原罪というのはよく考えられたシステムなのかもしれない。特に近代国家成立以降、国家として原罪が存在しない国を探すのは難しいであろうから。

 こうして日本人のことを批判していると「嫌なら出ていけ」などと言われることもあるが、出ていくにはお金も行動力も必要であるから、私にはそれはできないだろう。それに、私は日本に生まれたからこその恩恵を十分に受けてきたことも理解している。ホッピーや日本酒あるいは焼酎といった酒や、アニメやゲームミュージックは、私がこの国に生まれたからこそ容易に手にすることもできた。だが、人にせよ文化にせよ、優れた面の裏側には負の要素があるものである。それを抑制することもまた文化の役割でもある。それを忘れてしまっては優れた面すら失われてしまう危険性がある。

 日本人を批判するとき欧米諸国を手本として日本は遅れていると言う人々をよく見かけるが、この手法はほぼ失敗する。文明開化以降、数多くの日本人がその手法を用い挫折している。開明的といわれた知識人が、国粋主義へ反転してしまうという悲劇を私たちは目撃している。神と対峙することによって生まれた個人とそうではない個人は異なるから、日本型個人を構築しなければならないだろう。そのためにも、日本人の卑しさやみっともなさを見つめることが大切なのだと思う。辛い行為ではあるが、笑いを忘れることなく見つめれば何かが形になるのではないだろうかと、私は考えている。最後に長くなるが金子光晴の言葉でこのレポートを終えたいと思う。

 日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望して欲しいのだ。百年説の人も、二十年説の人も。開国日本をいまだに高価に買いすぎたり、民主主義で、箪笥にものをかたづけるように問題がかたづき、未来に故障がないというような妄想にとりつかれてほしくないのだ。しいて言えば、今日の日本の繁栄などに目をくらませられてほしくないのだ。
 そして、できるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、少しでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。
 絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は破滅的なのだ。
 日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国がそんな誇りをめちゃくちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、と思われてくる。(金子光晴『絶望の精神史』より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?