多目的トイレあるいは芸の役割について

 某芸人のスキャンダルが世間を賑わしている。その内容の是非については私の論じるところではないので、別の視点から今回のスキャンダルを論じてみたいと思う。

 多目的トイレでの性行為は合理性ではなく、人間の不合理性(衝動性もっと言ってしまえばどうしようもなさ)を象徴していると言えるであろう。けれども、そうした不合理性を言葉や身体の技術を用いて新たなものとして作り出し、非合理的なものを抱えている人間に対してカタルシスを感じさせるということが、芸あるいは芸術の力であり、それを人間は必要としている。しかし、最近の日本ではそのことが殆ど意識されておらず、それが今回のスキャンダルに繋がっているようにも感じられる。

 近年のマスメディア(特にテレビ)はいわゆる芸人に頼り切っているが、不合理なものに形を与えるという芸本来の目的をなかったことにして、お喋りによるコミュニケーションの巧みさを利用している。しかもそこに政治的正しさの制約をかけてしまうため、芸人に社会性を強く求めることとなり、人柄のよさが評価される結果となってしまう。しかし、本来、芸人あるいは芸術家に社会性や道徳を強く求めることは好ましくない。自身が不合理性を抱えており、それに言葉や形を与える力が優れていたからこそ、芸人あるいは芸術家になることができた人間の本質を奪い去ってしまうことになるからである。

 抑圧した不合理性は必ず回帰する。だから、芸人は本来の芸を離れて文化人化(あるいはコメンテーター化)する時が危ういのである。芸の本質を忘れることなく、世を見て批評できる人も勿論存在する。けれども、それは選ばれた天才だけにしかできない。だからこそ勘違いしてはならない。不合理なものに形を与え、そこから報酬を得るということは、誰にでもできることではなく、どちらかといえば少数派の人間の行為であるのに、自身を多数派、いわゆる社会性や道徳を語る人間であると勘違いすると陥穽すぐ側にある。

 多目的トイレの性行為を気持ち悪いと言う人々がいるが、その気持ち悪さを抱えているのが人間なのである。そのことを忘れてはならない。啓蒙や合理性の行き着いた先があの悲惨な二回の世界大戦であったことは歴史が証明している。合理性と不合理性、あるいは善と悪が一人の人間の中に存在するからこそ、人には歴史という概念があり、芸あるいは芸術という行為を必要としているのである。

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