情報エンターテインメントの時代 素人と専門家について

 ここ20年くらいの間、テレビ番組はアニメと気になったドキュメンタリーくらいしか見ていない。その理由はニュースも含めて全体的に騒がしいからである。自身が歳を重ねたからというのもあるのかもしれないが、報道番組がほぼエンターテインメント化してしまったことが大きいように思う。そして、エンターテインメント化してしまったのもそれなりの理由があるように思うので、そのことについて考えてみたい。

 幼い頃、ニュースを見ていると、キャスターは淡々と番組を進行しながら専門家に意見を聞くというようなスタイルであったように記憶しているが、それがガラッと変わったのは、ニュースステーションの開始だったことは記憶している。ニュースキャスターが強めの口調で意見を述べるのは新鮮に感じたのであるけれども、振り返ってみるとこれが報道のエンターテインメント化の分水嶺だったような気がする。

 これは推測なのであるが、昔、テレビの領域では、報道とエンターテインメントには上下関係があって、後者がどれだけ人気を博したとしても、その価値は前者より劣るというような、偏見というか差別意識が存在していたのではなかろうか。その差別意識に対する反逆として報道番組のエンターテインメント化が進行したのではないだろうか。だが、これは悲劇的な出来事のように思う。なぜなら、報道とエンターテインメントは別のものであり、だからこそ、それぞれに価値があるわけである。しかし、差別されている側の反逆により、その関係性が接近すると(ある意味、平等になったとは言えるのかもしれないが…)、それぞれの伝統や持ち味が失われてしまったように感じられる。

 ニュースステーションが始まった頃から現在に至るまで、フリーになってニュースキャスターとなる人はエンターテインメントの領域で活躍していた人が多いように思う。しかも強めの口調で自分の意見を言うスタイルを持っている人が好まれる傾向にある。先に私は差別されている側の反逆によって報道番組がエンターテインメント化したと述べたが、それが大衆に支持されたからこそ定着したことも忘れてはならない。初期は反権威主義的なエンターテインメント感覚が喜ばれたということもあったかもしれないが、次第にそれは強い人間が物事を断言することへの安心感に変化してゆき、皮肉なことにそれが政治にも影響を与えてしまうのである。

 高度経済成長の時代は過ぎ、バブルも崩壊し、冷戦終結後のグローバリゼーション及び新自由主義の進行により、相対化と競争が激しくなると安定性は失われてゆき、世界は複雑化してゆく。複雑化してゆくからこそ、専門家は状況を分析することはできるが、安易に処方箋を提示することはできない。それは職業的倫理観という点で、仕方のないことかもしれない。けれども、それでは大衆の不安を払拭することはできない。恐らくテレビで報道を制作する人々もそのことは理解しているであろう。だから、大衆の求めるものを提示するために声の大きいキャスターが物事を断言したり批判したりする番組を制作してしまう。そして、同じような傾向を持つ政治家を盛んにその画面に映し出す。またインターネット上では様々な文章や動画が交錯する。インターネットに真実は存在しないが、真実が存在すると思いたい人がいるのは世界が不明瞭で不安定だからなのである。

 世界と私の不安を専門家は解決してくれないという憤りが世界を覆っており、それを上手く利用する人々がこれからも数多く現れるだろう。それが暴力へと変換されないことを願うばかりである。

 では、お前はどうするのかと問われると思うので最後に私の立場を記しておく。物事について知りたい場合はお金を出して、専門家の書いた本や記事を買うようにしている(やはりタダより高いものはないのである)。勿論、それでも安心感は得られない。結局、知識を得て迷い続けることしかできない。しかも自身の考え方も月日と共に変化してゆく。けれども、安易な回答には手を出さないことが、報道がエンターテインメント化した今の時代に必要なことなのではないかと感じるからである。

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