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ディストピア

ある者がある者に何かを伝えていたとして、またある者はその状況を見ていた。

伝えられている者が伝えている者に対して抱く感情をまたある者が受け取りその状況を反面教師とした場合、その第三者である者は他人へ何かを伝えることを諦めるだろう。

伝えた者と伝えられた者の快・不快は各々個人の価値観であり肯定されるべきだ。

しかし、その第三者はどうだろう?

価値観の衝突もなしに、他者同士の快・不快のみで認識した矮小な世界によって、その者の価値観に繋がっていくのだろうか。

個人の価値観の持たない者の洞察とは、矮小的な世界の中でのみ確実に肯定される。まったくもって本質とはかけ離れている。
いわば、傷の舐め合いである。
そこではアイロニーを抱えているのだろうか。

なぜ、個人としての価値観を他人または集団に確実に置き換えて考えるのだろう。

もし、本当にそれが正しいとされるならば、我々は皆、沈黙していることが最も理想的な世界ということになる。

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