大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇 メモ

堀栄三は父の「情報とは相手の仕草を見て、その中から相手が何を考えるか知ろうとするものだ」という言葉を強く印象に残していた。
[大本営参謀の情報戦記 第1章]

情報に99%はあっても100%はない。

第十六課(ドイツ課)の情報意識は大島浩中将による"あまりにも容易に"ドイツ首脳と話が出来た為に認識が薄くなっていた。
逆に第五課(ソ連課)は、陸軍の元来の仮想敵国ともあってか、情報精査をキッチリとしていた。
旧日本軍に度々見られたネポティズム(縁故主義)がここでも感じられる。

(※堀は陸大卒業後、第五課に任命された2週間後に第十六課に吸収された)
[第3章 大本営情報部時代(2)]

親独という眼鏡をかけて読むと、推測や仮定が真実に倒錯するから、情報は二線、三線と異なった視点の交差点を求めないといけない。
(大島浩大使の電報によるドイツ軍が勝利する"であろう"電報について)
→国同士の関係性の中で親密に越した事はないけど、一定の距離を置くというか、盲目的に相手を信用したらそりゃ利用されるよねって。

旧日本軍には連隊に配属された初年兵を該当とした集団長(師団長クラス)による検閲がある。
検閲の最後に集団長が直接初年兵達の前を通り、質問を投げかけたりする(通り過ぎるだけの場合もある)。
その中の恒例の質問に「集団長の官姓名は?(階級と氏名)」というのがある。
一体これは必要であるのか?戦力や戦術を考える事よりも重要な事なのか?この通例がなくなればもっと早く教育期間を終えられるのではないか?と軍の形骸化を堀は疑うようになった。
また、その質問に答えられるか否かで兵士としての力量は全く測れるものではなかった。
その証拠に"集団長の官姓名すら言えない学の低い者"であっても後に名を轟かす勇者となった者もいる。(岡野二等兵)

「知識を有しているからと言って、その者が絶対とは限らず、戦力にならない場合もある。」

寺本熊一中将の「必勝六法」
・制空権の絶対性
→制空権がなければ、軍艦も輸送船も動けない、よって燃料も弾薬も食料も補給できない。

なぜ日本軍は「軍の主兵を航空機」を採用出来なかったか?
→海軍は日本海海戦(艦隊決戦主義)、陸軍は奉天会戦(歩兵主兵主義)。共に栄光として語られるが、そこから脱却出来なかった。
歴史は一定の教訓を与えてくれるが、未来を進むには"歴史を超えた革新的な考え"が必要なのかもしれない。

制空権の確保には航空機の不断のアップデートが必要になる。
より良いもの、より良いもの、より良いもの、、を繰り返していく先に制空権がある。
その意味では、何よりも国力がモノを言う。

絶対国防圏は"線"であったか?
→島1つひとつが、"点"であっては、国防圏とは言うけれど、どこの誰が救援に向かえるだろうか?即ちそれも制空権がモノを言うのであって、結果として日本軍は玉砕、飢餓、疫病に苦しめられることになった。
つまり、日本軍の絶対国防圏とは点でしかなかった。

情報は戦争の勝ち敗けの別れ目となるもので、そこには美辞麗句で彩ったフィクションではダメで、ノンフィクションでなければならなかった。

情報戦争とは、戦争が開始してから始まるものではなく、数十年も前から始まるものである。事実、米軍は大正十年から日本との戦争を準備して、情報を収集していた。
一例として、戦前の日本海軍の演習には米国の船が付きまとっていたのはよく知られている話である。
"情報"は一朝一夕のものでなく、長い年月をかけて得るものである。

日本は現在スパイ天国と呼ばれている程に、防諜に疎い。

孫子の言葉に、「敵情を知るには人材や金銭を惜しんではいけない。これを惜しむような人は勝利は掴めない。」
情報を得るにはあらゆる手段を試行しなければならないのだ。

戦時中、米軍に日本軍の暗号が解読されていたことは有名であるが、実は日本軍も相当の暗号解読をしていた。

太平洋戦争中最も情報の穴となったのが、"米国本土"である。
ここが分かっていれば、原子爆弾の開発にも気づけたのではなかろうか?

軍の最高司令官が、日本軍は東京にいた。
米軍は戦場に居た。
どちらがより良い判断を下せるだろうか?
→ビジネスにおいても何においても現場を知ることの大切かは変わらない。

「飛び石作戦」=占領空域の推進

日本軍と米軍諸教令の違い
○補給に対する考え方
米軍の補給は戦場近くに常に45日分を保持することを最低限とし、更に戦争初期(後方連絡線が脅威の危険があった)は90日分を目標としていた。
日本の衣類の補給は2年に1着とし、1着の耐用命数に対する根拠は明記はされていなかった。
→細部に至るまで徹底できていたか?ツメが甘いとは言えないだろうか?

米軍が太平洋で戦争することをいつから考えていたかは定かではないが、寺本熊市中将は米国駐在の経験から「大正十年以来」だと言っていた。(その時期はワシントン条約で日本海軍の戦力が5・5・3に押し切られた年だった。)

"閃き"とは知識の総蓄積とあらゆる体験からくるものであり、それは"職人の勘"のようなものだと言っても良い。

○なぜ台湾沖航空戦の誤戦果が起きたか
そもそも、航空機自ら確認するのは難しい。哨戒機?索敵機?で確認をしようにも、陸軍側の人間では艦船の識別すら不能であった。

→堀は"職人の勘"により誤戦果を疑ったが、それを証明できる"数字"はなかった。

元来日本軍では、上の者はドッシリ構えて部下の戦果?を迎え入れるような風習があり、それは日露戦争における大山元帥の太っ腹な態度に起因しており、それを理想像とする者が多かった。
そのためいたずらに戦果に疑を投げかけるのは"神経質"であって細かい人間として思われた。

重要なのは「信じたくない情報」に対しての態度ではないか?
リーダーたる者はどんな状況下においても、"情報"を正確に把握し、決裁をしていくべきである。

米軍では、戦果確認機を出して目で確認する方法が採られていた。

「実践(戦場)」と「机上」では何もかもが異なる。
後になっての批判は当時の状況を加味してない。

方面軍において、必要な情報の伝達は組織的に行われていなかった。

捷一号作戦を計画したのはあの「瀬島龍三」だった。

戦争において戦力だけでなく、経済や民心などの要素もある。

特殊性と普遍性を区別すること。
マッカーサーになったつもりで、「絶対条件」「有利条件」「可能条件」「妨害条件」の四つに当てはめて考えてみた。

情報で大事なのは、自分たちの戦力を冷静に把握すること。

堀は師団よりも鉄量(火力)の差を重視していたため、大本営の日本の一個師団と米軍の一個師団を"同等"と考えていた者と食い違いが起きた。
鉄量は精神で克服できるか?
第十四方面軍は「腰抜け方面軍」と揶揄された。
→勢いがある時のシナジーを利用しない手はないが、やはり冷静に客観視することも必要で、単眼的思考はやがて盲目となる。
どんな状況下でも複眼的に物事を判断すふ必要がある。

米軍は山が嫌いであった。
レイテの第1師団の戦いは絶対的優勢な米軍に対し、弾丸や食料の補給もない中で、2ヶ月近くに渡って戦った。
もし弾薬、食料があれば結果は変わっていた?

一度決めた戦略は変えてはならない。
戦略を策定するまでにも塾考するべきであるが、正解不正解あれど、戦略を翻すことは、より被害を増大し、末端の人間が血を持って償うことになる。
そういう意味で、山下奉文大将は筋の通った人間だったと言えるのではないだろうか。
[第4章 山下方面軍の情報参謀に]

日本軍の暗号の解読は硬かったが、多数の人員を必要とする上に、翻訳の誤りが多かった。(先頭→戦闘,戦果→戦火等)

日本の暗号は、通信文を書くとそれを暗号の辞書を引いて四桁数字の数字文にする。
その数字に乱数表によって乱数を加減して、また別の数字文にする。これが暗号化。
暗号化された文書を受信した側は、翻訳用の乱数を加減して、数字文に変更。
これを更に暗号翻訳用の辞書を使って、日本文にする。
→難解な暗号解読の仕組みなのに何故解読されたのか?

対して、米軍の暗号は、機会暗号であり、簡単に言えば大きめのタイプライターを操作するようなもので、「キー」を日々変更するだけで、一人で暗号作業ができる仕組みになっていた。

日本と米軍の差は手仕事と機械の差。

米軍機を探知するレーダを富士山に設置したが、それを逆にレーダが発信する方向に米軍機が日本に向かう案内役としてしまった。

原爆までの米軍機の不穏な動きは通信諜報で掴んでいた。しかし、最後まで霧は晴れず原爆は投下された。
もし、原子爆弾の"ゲの字でも"を知っていれば、暗号解読が完成していれば、米国本土の諜報網があれば、、
情報の任にあたるものは、軍事だけでなく、あらゆる知識を得ている必要がある。
"情報"とはあらゆる知識(情報)の交差点にしか価値が表れない。
→これは勉強なんかしなくていいという人には響きますね。
知識はただ得ること自体に意味があるんじゃなくて、蓄積した知識が交差したある一点がダイヤモンドに化けることになる。
そもそも情報(知識)を集めない限りはダイヤモンドなんか見つかりませんよってことですかね。

暗号解読は陸軍特殊情報部(特情部)の仕事だった。

近代暗号書の考案者は原久元中佐だった。

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