ニーチェ入門 メモ

竹田青嗣さん著のニーチェ入門のメモです。

近代哲学の大きな峰は、17世紀のデカルト、18世紀のカント、19世紀のヘーゲルということになる、
[ニーチェ入門 第1章]

19世紀にヘーゲルによって、「解決」とされた哲学体系にも、反対派が現れる。
それがショーペンハウワーだ。
その非理性主義、厭世主義の流れにニーチェ思想もある。(理性よりも力への意思,世界の矛盾は解決できない)

「狼の理想主義」ニーチェの「反時代的考察」で著された、ショーペンハウワーの哲学に基づく、現実(ゲーテ)と理想(ルソー)を二分するのではなく、現実を深く洞察した上でロマンを追い続けられる道を探した思想。
ゲーテ(現実)とルソー(理想)を超えうる哲学をショーペンハウワー哲学とワーグナーの芸術にニーチェは見出した。

ニーチェによると、近代哲学は人間を凡庸化させている。いわば、弱者に下駄を履かせてるようなものだ。国家主義、民主主義、教養主義はその表れだ。
人間の文化で最も大切なことは、「より高い範例の人間」である。
ニーチェの思想には、強者と弱者とを分ける考え方がある。
これは超人思想で詳しく語られる。
[ニーチェ入門 第1章]

ニーチェは、「歴史の目標を人間以外のものにしてはいけない」という。
それは近代哲学の「超越的」な目標。つまり、神であるとか、イデア、最後の審判などの形而上的なもの。
そのような実在しないものを歴史の目標にしてはいけない。
では何が目標となるか。
それは「人間の生それ自身」であり、更なる高みにもっと人間的なものへの形である。
※この考えは超人思想に続く

キリスト教没落の主なる理由は、自然哲学の台頭であり、それはガリレオの地動説、ニュートンの万有引力、ダーウィンの進化論などの新しい知見である。

この頃反キリストとして、科学者や哲学者、合理主義者が居た、しかし彼らも結局求めるところは凡ゆることを知ることで、また"新たな真理"を見出すことであり、それはキリスト教が本来持つ、禁欲主義的理想という本質と何ら変わらないものだ。
[ニーチェ入門 第2章]

キリスト教の道徳は"自然に反する"と言える。なぜか、所謂「隣人愛」のような「自分を戒め、他人の為に何かをなせ」というのは、根本的な顚倒がある。
それはつまり、「人間はまず自分の為に努力し、余裕があれば他人を助ける」ということが、人間の道徳的な自然性であるからだ。

そして、このキリスト教の道徳には何らかの「超越者」がある事によって、「絶対」となり"この世の一切を超えて大事な"「真理」となり信仰が成立する。

「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」

ペシミズム→悲観主義
シニシズム→冷笑主義

真理=強力な解釈

解釈の本質は"価値評価"であり、価値評価とは、「保存・生長の諸条件」である。
全ての生は「保存・生長」を自らに課しており、それこそが"力"である。
この"力"が世界を解釈する。
何が有用で、不可欠で、利益なのか。

平等主義イデオロギーは、強い人間と弱い人間が存在するという動かしがたい現実を否認するものであり、個人が持っている真の課題を取り逃がす。
即ち、人間社会の力の格差を"受け入れて"その中で自分をより高みに到達させようとする姿勢こそが、「力への意志」なのである。

つまり、弱い人間は、羨みや妬みの代わりに、より高い人間を憧れ目指すべきであり、強い人間は傲慢と自惚れの代わりに、もっと高みに到達せんとする課題を持つ。

永遠回帰とは、世界をあるがままに「是認」することを通してむしろそれを「肯定」するところまで徹底すること。
「是認」から「肯定」へと進む道としての「永遠回帰」なのである。

つまり、世界の一切(苦痛、快楽等)に"意味"を求めず、あるがままに"是認"することを通して、ある種「究極の肯定」まで辿り着く。
※恐らくこの是認→肯定は世界という巨大な抽象概念から自己に帰結する。
つまり、世界の一切を是認することで、自分自身の一切を肯定できる。ということ。

ディオニュシオス的肯定「私はこう欲したのだ」は、生に対し全力を尽くした結果からしか表出されない。
つまり、全力で生きる事によって始めて人は生を肯定できる。「私はこの苦痛を!快楽を!"私自身が"望んだのだ!」と。

ニーチェは問いかける「なぜ生きるかではない。君は"いかに"生きるか。」
過去より未来。というより"今"なのかな。
[ニーチェ入門 第3章]

本質は「より強くなろうと欲する」ことであり、人間が頭で作り出す「目的」や「意味」などはその仮象に過ぎない。

快、不快は見えない何らかの目的を達成しうる手段であるのかもしれない。
[ニーチェ入門 第4章]

ニーチェの哲学は「倫理がない」と感じた。
恐らくモラルの象徴「キリスト教的な第一に他人を考えよ」というのに対するアンチテーゼとして現れたのがニーチェの哲学だからであろう。
しかし、そこには人間が本来持っているものに対する深い愛が感じられ、また人間はもっと自由であるべきだ。という何処か人間に対する信頼感のようなものを感じた。

つまり、羊となり群れて怯えているのではなく、狼として生を肯定して力を求めよ。ということなのである。

ヒトラーとニーチェ
ニーチェの哲学は"革命思想"を嫌っており、あくまで「個人がより良く生きる為の、既存思想に対するアンチテーゼ」なのであり、ヒトラーが行ったことはニーチェの思想には反するのだ。
ニーチェの哲学は最も"使われ方"を間違えた哲学とも言えるかもしれない。

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