他人を慮った先に、、
社会において他人と協調するというのは大事な要素の1つではあると思うのですが「相手の気持ちを考えて!思いやりを持って!」という類には吐き気がします、、
そもそも「相手の気持ちを理解する」という前提が崩壊しているのに、どうやって思いやるというのか。
たぶんこういう事を仰ってる方は、集団におけるコンテクストに強制性を持たせるか(みんなという言葉を多用)、何となく普遍的な(それってそんな感じだよね〜と矮小化)、こう言っとけば当たり障りない(君の気持ちはすごく分かる!※分かってない)、そんな毒にも薬にもならない感じで。
故に私は相手を思いやってる。って事なんでしょうね、、
だったら本質的にあなたがそこにいる必要性はないし、他の誰か(もしくはGoogle検索)でも良いのでは?ってなってしまう。
他人に話を聞いて欲しい人がいるというのは分かるし、そういう時もあるでしょう。逆に他人の話を聞きたいという場合も。
しかし、私は相手を思いやってるという卑しい自覚感が逆説的にクソな同調圧力を呼び本当に言いたいことを言えない、本当に向き合いたいことに目を向けられない世の中にしてるようで、僕は嫌いです。
みんな違ってみんな良い、もしくはみんな違ってみんなクソ。それで良いと思うんですけど。その多様な個人のクロスポイントに新たな認識が育まれると考えている僕は人間に期待し過ぎですかね。
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