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【弱さのハラスメントと選択理論と姥ざかりと】



インプット期が継続中。昨日は仕事が休みだったので必要な買い物を済ませた以外はずっと文字を読んでいた。文字を読んでいると内容に関わらず心が落ち着く。

インプットばかりでまた頭が重くなりそうなので、少しガス抜きと備忘のためにアウトプットしておく。雑多に読んだため自分の主張として落し込めておらず、ほぼほぼリンクの引用羅列になるので読む前にご了承くださいませ。

■暴力的な弱さが支配する(ほぼ日小論文講座より)|山田ズーニー
https://www.1101.com/essay/2015-01-07.html
つづき1
https://www.1101.com/essay/2015-01-14.html
つづき2
https://www.1101.com/essay/2015-01-21.html


引用。(改行は/と置き換えた)
「自分が折れたおかげで事は無難におさまり、/「自分もまるくなった、
 おとなになった」と、/褒めてもいいような一件だった。/だが、とうてい褒める気にはなれず、/胸のざわつきは強まり、/自分イケてない感が募った。/「屈した」/という後味だった。(中略)屈したとしたら、何に屈したのだろう?/考えたら、/相手の/「弱さ」だった。(中略)暴力っていうのは、/腕力をふるうことだけではない。/人がわかりあうのをやめ、/言葉にするのをやめ、/考えるのをやめ、/そうした果てに及ぶ短絡的行動、
それは暴力的なチカラで周囲を威圧する。/「暴力的な弱さ」/そういう力に屈したくない。(中略)まずは「そんな弱さ、恐くない!」と/自分に言い聞かすことからはじめてみようと思う。」

強いか弱いかではなく、「思考停止」を憎む話、だと私は理解した。マジョリティという数の暴力による「思考停止」への怨嗟はよく聞かれるが、「弱さ」による思考停止への真正面からの告発は、私個人としてはこの山田ズーニーさんの文章で初めて触れた。

本筋とは逸れるけれど、これを読んで、それだけ弱さの主張がありふれて表に出てきたのではないかとも思う。数が増えれば人は慢心する。いや、慢心ではないかな、他人の考えた思考にただ乗っかる、かな。それこそが思考停止。

この文章には続きがあって、読者のコメント紹介という形で続く。(つづき1、つづき2)(https://www.1101.com/essay/2015-01-21.html)。左のリンク先「つづき2」の中で寄せられた読者からのコメントで、暴力的な弱さを「子泣きじじい」に例えた話が印象に残っている。ズーニーさんもこの比喩を気に入ったようで、暴力的な弱さを持つ相手(子泣きじじい)を「抱っこしない・怖がらない」と締めくくっている。

山田ズーニーさんの論説を読んでまず頭に浮かんだのが、しばらく前に日記投稿した【人生無理バー炎上問題について】かな。(https://note.com/kirakiramamama/n/n51fc6e5d5d55

私の感想は月並みなものなので特に読む必要はないけれど、関連記事として次の記事を推したいと思う。

■弱者同士の互助の場が必ず崩壊する理由|rei
https://note.com/beatangel/n/ncb0303c4a666

こちら少し長いけれど引用する。とても優れた論説だと思うので時間のある人はぜひリンク先を読んでみて欲しい。

「弱者同士の互助の場は往々にして高潔な精神やアガペーを持った人間が立ち上げ、しばらくは主催や志を同じくする人間の「無償の愛」で上手く回る。しかしながら、それが上手く回り始めると「私も救われるかも!」と期待を抱く弱者が集まり始める。弱者は弱者なので自分が何か差し出す事はない/出来ないがコミュニティに迷惑はかけたりしてしまう。そうすると当然ながらコミュニティは、その迷惑をかける弱者にリソースを割かれ続け…そして愛は減ってしまう。」

「「生き辛い人間は誰でもコミット出来る場」という理想はあれど、弱者が集うコミュニティというのは非弱者ないし弱者内の相対的強者にとっては「愛を与えられず愛を要求され続ける」不快な場である事を意味する。良い悪いは別にして、誰かに迷惑をかけてしまう弱者を弱者コミュニティが包摂しようとすると、弱者コミュニティ故に乏しいリソースが1気に底をつく。弱者同士の互助には「弱者故に弱者を包摂出来ない」というジレンマが存在する」

このジレンマを唯一解消し得る構造としてreiさんは「宗教」と「闘争」を挙げているが、科学の子としては前者を受け容れがたく、平和主義者としては後者を受け容れがたい。

この大きな問題はこの先の宿題として持っておくことにして、私には今のところ社会を救うような資質も力量もないので、まずは個人レベルで自分の救済を目指すことにする。つまり弱者でありながら、個人として自らの弱さを克服する方向へ。

そこへ最近たまたま見かけた「選択理論」というものを投げ込んでみる。

■選択理論(「より良い人間関係を築くための心理学」と称して1996年に発表されたまだ新しい心理学)アドラー心理学をもうちょっと手法的にしたような?齧った程度だけど、「人を外的コントロールで動かそうとしない」「問題解決に外的コントロールを用いない」という部分が私にとって共感できる理論だった。
http://www.choicetheory.jp/words/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E7%90%86%E8%AB%9610%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86/

引用。
「(1)私たちがコントロールできる行動は唯一自分の行動だけである。
(2)私たちが与えることができるもの、他の人から受け取るものは全て情報である。
(中略)
(6)私たちは、遺伝子に組み込まれた5つの欲求、すなわち、生存・愛と所属・力・自由・楽しみの欲求によって駆り立てられる。
(7)私たちは、上質世界に入っているイメージ写真を満足させることによってのみ、こうした欲求を満たすことができる。私たちの知っている全ての中で、上質世界に選択していれるものが、もっとも重要である。
(中略)
(10)全ての全行動は選択されたものであるが、私たちが直接コントロールできる要素は行為と思考だけである。しかしながら、自分の感情と生理反応のコントロールは、間接的に私たちが行為と思考をどのように選択するかによって行っている。」

ざっと読んだだけなので、この上質世界という部分がまだ理解しにくいけれど、私の中で理想的な将来像がある。それは田辺聖子さんの「姥ざかり」という小説に出てくる歌子さんというおばあちゃん。

歌子ばぁちゃんの朝食はいつも紅茶にトースト、目玉焼き、グレープフルーツ、トーストにはバターかマーマレード。しっかりこっくり満足な朝ごはんを【自分のためだけに】用意して、たっぷり味わって食べる。そういうおばあちゃんになりたい、と思う。

歌子ばぁちゃんなら、目の前に子泣きじじいがいたら抱き上げるでもなく、怖がるでもなく、蹴飛ばすでもなく、興味津々と眺めたのちに「ねぇアンタさ」、と話しかけるのではないかな、と思う。

#なんちゃってポテトサラダの写真とか…
https://twitter.com/kirakiramamama/status/1334438620829110273?s=21

#本日のお歌…かしわ哲さんの【アイタイ】。NHKハートネットTVでアイタイプロジェクト実施中❗️(ほっこり〜ず☆で参加したーい)https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/443/


さいごにリンク先オマケ
■山田ズーニー先生のほぼ日小論文講座(小論文講座で構造的文章力を身につけられるかしら…?まぁまずは日記ではなくテーマを絞ることだと思うけど。沢山あるので暇な夜とかにちょっとずつ読みたい)
https://www.1101.com/essay/index.html

■しいたけ占い(友人の間でずっと流行っていて、初めてサイトを見てみた。普通の占いよりも星座ごとの性格の決めつけがすごい。グイグイくる。けど当たってる気もする(まだ懐疑的))
https://voguegirl.jp/horoscope/shiitake/

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