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冷やし中華おわりました

ちょっと暑くなってきたなぁなんて思ったら、よく見かけるのが「冷やし中華はじめました」。
時々早ければいいと思ってるのかしら?って店なんて桜の終わり頃にはそののぼりが立ってたりすることもあり、「早すぎ・・・」って思うことも。

はじめる時はみんなやたら宣言する。自分を盛り上げるためもあるけど、宣言した方が気持ちいい気もする。

でも、いまだかつて「冷やし中華おわりました」ののぼりは見た事、ない。

わたしはものすごく沢山ののぼりを背負っていて、例えば「登校拒否」「家族関係悪い」「鬱」「看護師」というようなのぼり。

ひとに何かを伝える、ということをするようになってからは、「登校拒否だったけど、ちゃんと社会人できてます」とか「家族関係悪かったけど、今は仲直りできたよ」とか「鬱の時も看護師してたよ」とか「看護師だけど病院やだから訪問看護してるよ」とかのエピソードのぼりが多くなった。

そののぼりを背負うことでたくさんの出会いがあったし、自分を分かってもらいやすくなったりもした。せっかく背負ったのぼりだから活用したい、それを価値に変えたいってのぼりを振り回していた時もあった。

書いていて思ったのは、気づいて欲しくてのぼりをより高く持ち上げて振り回すんだけど、そんなことしたら、のぼりに何が書いてあるかなんて見えなくなる。
見て欲しい〜って頑張ってやっていたのが、懐かしくもあり恥ずかしくもあり抱きしめてあげたい感じもあり。

数日前に、とある研修に参加したんだけれど、その時に足元を見て会場中を歩き回り、今までの過去を振り返るっていうワークがあった。

そのワークをしている時に、ワークとして意図されている「何か」を感じなかったし動じなかった。感動しないことに、ビックリした。

こういう過去を振り返る系ワークすると、絶対的に滝の涙が出ていたものだ。ああ、わたし、頑張ったよねえ、乗り越えたよねえ、すごいよねえ!って、自分で自分に感動していた。

でも、今回はそういう感慨深さは全く現れず、おお、おお、おお、何も感じないぞ!という不思議な感動があった。

「背負ってたもの、おろしてたんだ」

ずっと背負っていたもの、
持ち上げて振り回していたもの。
「過去」を背負い、「過去を乗り越えた」を背負い続けていたけど、「過去を乗り越えたわたし」を終われていたんだ。


それに気づいたその一瞬だけ、
「冷やし中華おわりました」的なのぼりが上がり、すぐ下された気がする。


のぼりを背負うことは、意図して上げていることもあれば自分の気づかないうちに勝手に上がっていることもある。
知らないうちに上がって背負っているのぼりの維持には意外にエネルギーを使うものだ。

今の自分にどんな「のぼり」が立っているのか考えてみよう。
古ぼけて煤けてしまった、上げた覚えのないものは下ろしてしまうのも良いかもしれない。きっと、軽くなる。

ちなみに、今のわたしに立っているのは「11月から22年ぶりに地元に帰ります」という未来形のぼりだったりする。
面白いのは、そののぼりに飾りを付けて派手にして「重いのぼり」にしていること。書いていて気づいた。
自分で勝手にわざわざ「重く」していることって、案外多い。
もっと軽くていいんだろうな。気軽に上げて、ささっとおろせる。

でも、絶対下ろしたくないものが出来たら、重く、派手にするのもいい。
今、死ぬまで背負っていたいのぼりも作っているところ。楽しみ。


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