全然すごくなくて、すごくすごい私。
少し前に、「過去」と「過去を乗り越えた私」っていう重い荷物を降ろしたことに気づいた事を書きました。
もう少し何か付け加えられたらいいなーって思っていたことが、ついさっきふっと浮かんだのでまた書くことにします。
まあ、タイトルの通りなんだけど、今まで自分がとってもすごいって思っていた「色んな事を乗り越えた」っていう事。
それはここ数年の自分の宝物のだったんですね。
長い時をかけてやっと見つけた宝物たちを愛おしいと思うのは普通のこと。
だけど、「その宝物を沢山持っている自分はすごい」と、「誰かと比べる事」はちょっと違ったんだな、と。
その上、「宝物は持っていた方がいい!」とか「あなたの宝物を一緒に探してあげる!」なんて・・・・
お節介もいいところでしたよね。ははは。
宝物を持っていなかった、持っていないと思っていた私はその宝物があまりにも素晴らしく思えて、自慢したかったんですね。
そして、ただただ純粋に、
こんな素晴らしい宝物、みんなも持っていた方がいいよ!と思っていたんですね。
でも、知らなかった。
宝物は、実は全員が持っているという事。
持っていることがすごいと勘違いしちゃったのね。
その宝物たちは、「最初から持っている人達」もいる。
そして、「自分とは別の方法で手に入れた人達」もいるということ。
本当はその「宝物」はごくごく普通のものなんだけど、「手に入れた方法」によって、「特別感」を同時に得ていただけのこと。
私の宝物である「毎日をしあわせだなあと感じながら生きること」。
それはただ、「私は」、家族の崩壊や、鬱や摂食障害や借金とか、激しい事を経験する事でやっと見つけられた、感じられるようになっただけのこと。
そんな激しかったり面倒くさい事を体験しなくても、常に日々を満ち足りた気持ちで生きている人もいるわけです。
勘違いは、より大変で大げさな方法で手に入れた方がすごい、素晴らしい、という事だったと思う。
例えば指輪物語が、サルマンが力を持つ前に、ビルボがさっさと火に投げ入れて溶かしてしまっていたら、あんな感動的な物語にはならなかったし、旅の仲間に巡り合うこともなかった。
平和な世界が続くのであれば、あんな危険な旅が必要になる前にさっさと解決してしまったっていいのです。平和なんだもの。
ただ、物語にはならないだけで。
きっと私は、自分がすごいと思いたくて、宝物を手に入れる方法を難しくややこしくしていたんだろうな。
それは単なる、「自分の好み」の問題だっただけ。
本当は、そんな難しくて面倒くさくて大変なことしなくて、今すぐ簡単にしあわせで在ることができたのに、そっちを選ばなかっただけ。
だから、素晴らしい宝物を持つ自分は、全然すごくない。全然ふつう。
でもね、全然すごくない、全然ふつう、で在る自分は、素晴らしいと思う。
それが、全然すごくなくて、すごくすごい私。
みんな違ってみんないい、とかも同じことだと思う。
みんな、全然すごくなくて、すごくすごいんだよ。
どっちか片方にブレちゃうから、変になっちゃう。
そして、変になっちゃっても、それはそれでふつうで、全然変じゃなくて、でも変、みたいな。なんかとんちみたいになっちゃうけど。
肩の荷を下ろした自分には、
全然すごくなくて、すごくすごい私、っていうのがしっくりきたんです。
そして、わざわざ面倒くさくて大変な方を選んできたのは、今自分が大切に思う沢山の人達と出会うためだったのかな、と思う。
そして、その人たちと何かを経験したり共有するためだったのかな、と。
そんな自分が大好きになれたのも、自分にとっては宝物。
誰かにとっては当たり前かもしれないけれど、宝物なんです。
「自分」が周りを見渡した時にね、
すごいなーって思う人も全然すごくないし、
すごくないなーって思う人も、すごくすごい。
その「視点」を持って入れば、すごいとかすごくないとかに振り回されず、生きていけるんじゃないかなって思うんです。
全然すごくなくて、すごくすごい自分で、すごくすごい事を、全然すごくない感じでやっていけたら、これからも毎日「あー、しあわせだなあ」って生きられると思うんです。
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