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花束をあなたに

「元気にしてる?」

彼女は真っ白なスイートピーの花束を持って現れた。真っ白な病室に真っ白な花束、加えて彼女の服装も上から下まで真っ白だったので、わたしは自分が世界の裏側に迷い込んでしまったような気持ちになった。

「入院してる人に言うセリフ?」

わたしが笑うと、彼女もちいさく笑った。手渡されたスイートピーの花束を受け取って眺める。ひらひらとしていてなんだかとても心もとない。わたしのための花束というよりは、彼女自身がそのまま花束になってしまったようだった。
彼女は来客用のパイプ椅子にそっと腰かけた。持っていたカバンをちょこんと膝の上に乗せる。真っ白のファーで覆われたカバンは小さく、何も入らなさそうに見えた。少なくとも花束が入る大きさではなかった。きっとわたしの財布も入らないだろう。

「もうすぐ退院できるみたい」
「そう、いつ?」
「明後日くらい、何もなければ退院しても大丈夫だって」
「よかった」

はにかむように笑う彼女は、どうしてわたしの友達なんてやっているんだろう、と思うほどわたしとは何もかもが違った。がさつでずぼらなわたしと、おしとやかで癒し系の彼女は、それでもなぜかうまくいっていた。初めて彼女を見た時、直感でこういう人種とはうまくやれないに違いないと思っていたのだけれど、時間を重ねていくうちにすっかり彼女の独特な癒しオーラにわたしはやられてしまった。いるだけで人をほっとさせる人間が、この世に本当に存在するんだと知った。彼女は愚痴を言わず、泣き言も言わなかった。強い人なのだろう。見た目はこんなにふわふわしているのに。見た目がきつい割に、精神的に弱いわたしは彼女にとても憧れていた。そう、友情というより、羨望に近い眼差しで彼女をとらえていた。

「お見舞いに来るのが遅くなってごめんね」
「全然だよ、むしろ来てくれてありがとう」
「最近ちょっとバタバタしていて」

彼女が左手で右の髪の毛を耳にかける。爪はあわいピンク色に染められていた。あのね、と少し口をもごもごさせながら、彼女はうつむき、かと思えば顔をあげ、そしてまたうつむいた。

「なにかあった?」

少しの間をあけて、彼女はこちらを向く。いつもの優しい笑顔が消えている。「実はね、」

「実は、引っ越すことになったの」

わたしは、少しの間沈黙した。引っ越す。どこへだろう。これだけ言いづらそうにして、近場に引っ越すということもないだろう。関西か、九州か、はたまた北海道か、でもどれでも飛行機に乗れば会えるのか、などと考えていると、小さな小さな声が聞こえた。

「イギリスなの」
「イギリス」

ぽろっとわたしの口からそうこぼれた以外、わたしは何の反応も返せなかった。
イギリスまで一体何時間飛行機に乗り続けることになるのかをわたしは知らない。直行便はさすがにあるだろうが、渡航費はいくらかかるんだろう。そもそもわたしはパスポートをもっていない。そんな、そんな何もわからない場所へ、彼女は行くというのか。

「急だね」
「急なの」
「何があったの」
「彼氏がイギリスに転任することになって。ついてこないかって、結婚しようって、言われた」
「それは……いい話なんだね?」
「そうだと思う」
「じゃあ、いいじゃん。よかった。おめでとう」
「ありがとう」

彼氏の話はこれまでも何度か聞いていて、彼氏について話すときの彼女のしあわせそうな顔を眺めるのがだいすきだったから、結婚することになったのは大変におめでたい。こんなにいい人間を妻にできるなんて、彼氏は世界で一番しあわせ者だと思う。
でもおめでとう、の前に、いなくなっちゃうの、の感情が来てしまう。100%で喜べない。自分勝手な理由だとわかっている。でも彼女を失うことは、わたしの人生において結構ダメージが大きい。言わないけど。おめでたいんだから。ただ、わたしは今そういう風に感じていて、これから先にも不安を感じていて、そうなんだな、って自分で自分の状態を認識するくらいは自由だと思いたい。
でも多分、それくらいが自由の限度だ。そっかそっかあ、なんて言いながら、手の中の花束を眺める。スイートピーの花言葉を思い出す。わたしを忘れないで。

「落ち着いたら遊びに行っていい?」
「イギリス?」
「うん」
「ぜひ来て」
「うん」
「約束だよ」
「うん、約束だ」

彼女が帰った後、わたしはその花束を花瓶にいけた。これが彼女からの最後のプレゼントになるかもしれない。スイートピーはドライフラワーに適しているんだろうか。わからないけど。

「忘れないよ」

すきな気持ちだけは、この花束みたいに真っ白のまま、ここにある。


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