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社会はなぜ子どもを望むのか?#10生きる編〜ゾーエーとビオス〜

社会はなぜ子どもを望むのか?
子どもやその誕生について考えることは、生きるということ、生命について考えることでもあります。
今日はその「生」というものについて、記していきます。

「生」には2つの意味がある

ギリシア人は、我々が生(ヴィータ)という語で了解しているものを表現するのに単一の語を持っていたわけではない

「ホモ・サケル」ジョルジョ・アガンベンより

私たちが「生」あるいは「生命」として認識しているものは、ただ単一の「生きる」ということのように思えます。
しかし、ギリシア人はかつて「生」は単一の意味ではなく、2つの意味があると考えていたそうです。

一つは、ゾーエー(zoe)、もう一つがビオス(bios)です。

ゾーエー:生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きている、という単なる事実

「ホモ・サケル」ジョルジョ・アガンベンより

生物学的、剥き出しの生のような、生命そのものの「存在」を表しているのが、「ゾーエー」です。

ビオス:それぞれの個体や集団に特有の生きる形式、生き方

「ホモ・サケル」ジョルジョ・アガンベンより

一方で、「ビオス」は、より社会的、個人的、公的なものとしての生命のことを指しています。
古代ギリシア人は、この2つを区別していたようです。

政治権力としての「生」

イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンは著書「ホモ・サケル」の中で政治権力としての「生」について扱っています。
ミシェル・フーコーの生政治などから展開した思想のようなので、フーコーの前提知識がないと、正直わかるようでわからない著作でした…。


ただ現時点で理解できたことは、人はただ生きているのではなく、政治的権力として扱われる、つまり、生命は政治的権力に制御されているということです。

なぜ社会は子どもを望むのかに置き換える

まず、「生」の2つの意味をなぜ社会は子どもを望むのかに展開して考えると、
本能としてのゾーエーと、子どもを産むことの政治性・社会性としてのビオスととらえられるかもしれません。

これまで子どもを産むことは本能である、ということに疑問を感じてきましたが、それは「生」の扱い方が単一的な存在論となっていることが違和感の原因であることがわかってきました。この単一的な存在論として、「ゾーエー」という言葉が当てはまります。

一方で私が注目するのは、「ビオス」なのです。
子どもを産むことは、それぞれの個体や集団に特有のもの(政治や文化、個人)をはらんでいるのです。

ゾーエーとビオスが混同しているから、論も混乱していたのだとわかってきました。
また、ビオスという論を無しにしてこのテーマは語ることができないと明らかになりました。

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