社会はなぜ子どもを望むのか?#09番外編〜ケアの学校〜
社会はなぜ子どもを望むのか?ヒントを得るために、アーティスト長島有里枝さんの展示に行ってきました。「ケアの学校」という展示で、名古屋市港区で開催されました。
なぜ展示に行ったのか?
私の修論テーマである、社会はなぜ子どもを望むのか?について考える上で、広義に「ケア」を考える必要があるのではないかと教授から指摘いただいたのがきっかけです。
そんなときに「ケアの学校」という展示を目にしました。アーティストの長島有里枝さんは、「ははとははとの往復書簡」を読んで知ったような気がします。
武田砂鉄さんの著書「父ではありませんが 第三者として考える」も、長島さんの言葉がきっかけで第三者という立場で捉えることになったと聞きました。
私の中で気になっていた長島さんが「ケアの学校」、しかも地元名古屋でとのことでこれは運命だと思い合間を縫って実家へ帰りました。
https://www.amazon.co.jp/ははとははの往復書簡-長島有里枝/dp/4794973063
展示「ケアの学校」
展示会場は、港まちポットラックビル。
開場直後に行ったので一番客でちょっと緊張した。
コミュニティスペースっぽいな、という第一印象を受けた。
あとから考えると、奥にある円卓や作品が自分の身長よりも下にあるからかもしれない。
一周作品を観た後に、円卓に座ってテキストを読んだり映像を観たりした。
もしかしたら、作品というよりも場所を長島さんは作ったのかもしれないと思った。
円卓はもちろんのこと、開場の真ん中にはバレエのバーが置かれていた。
始めはこれはどんな作品なんだろう?と考えてしまった。でも、ここで長島さんがきた人と一緒にバレエをやっているというエピソードを聞いて、これは場所を作ったのかなと思った。場づくりという感覚すらないのかもしれないけれど。(美術館に眼鏡が落ちていて作品かと思ってみんなまじまじと観ていたけど、実は落とし物だったみたいな感覚)
そんなことを考えて二周目を回って、長島さんの本を眺めてそろそろ帰ろうかなぁと思ったときに誰かがやってきた。長島さんだった。
帰ろうと思っていたけど、「みてていいよ」と長島さんに声をかけられてもう少しいることにした。
作品や本を三周目しながら、長島さんとスタッフさんの会話、もう一人来た人との話を聞いていた。
もう一人の人は、サッと長島さんに話しかけて会話を始めていた。ちょっと羨ましかった。
私はシチュエーションによるけど、話しかけるのに勇気がいる時がある。(シチュエーション人見知りと呼ぼう。)
話しかけられたら話せるし、入学や入社で隣の人に話しかけたりするのに、こういうシチュエーションだと人見知りしてしまう。
ああいいなぁと思いつつ、「ありがとうございました」と言って帰ろうとした。
すると、長島さんが「ちょっと話す?」と声をかけてくれた。
めちゃくちゃ嬉しかった。
そこから、自分がその場所の一部になれた気がした。
繋がっていなかった点と点が、一言声をかけるというエージェンシーで繋がった感じ。
もう一人の人が去り、長島さんと座ってお喋りをした。20分?30分は話していたかな?
自分の研究の話を聞いてもらったりした。
話ができたことも嬉しかったけど、長島さんが終始名前で呼んでくれたことも嬉しかった。
名前で呼ばれることで、目の前にいる私と会話をしているんだと感じた。
名前も知らない人と話すとき、どこかでバリアがあると思う。それもいいんだけど、名前を呼ばれることで気にかけられてるという気持ちになった。(ダイナミックな気持ちの変化じゃなくて、あぁ嬉しいなぁじんわりって感じ)
ケアとは誰かを気にかけること
この嬉しい気持ちってケアだよね、とあとで気がついた。
エツィオ・マンジーニは「Livable Proximity」で、ケアとは誰かを気にかけることと言っていた。
名前で呼んでもらったり、ちょっと話す?と声をかけてもらったことは、誰かを気にかけることの一つだと思う。それでほっとしたり、嬉しい気持ちになるのだけど、これがなかなかできない。
一言声をかける、名前を呼ぶ、話すこと、少しの間同じ空間にいるだけでもいいかもしれない。
誰もができそうなことが、なかなかできてない。
ちょっと反省しつつも隣の芝は青いかもしれないので、自分が気にかけていることを考えてみる。
うちのおばあちゃんと電話したり、おじいちゃんと昼寝したり(寝てるのは私だけ)、赤ちゃんや犬をみると手を振ってみたり、友だちに誕生日おめでとうと言ってみたり。
あれ、それだけでもケアになってるかもしれない。
ある意味相手を、その人として認識することなのかもしれない。気にかけることって大勢のうちの誰かじゃなくて、「あなた」と見出されることなのかな。
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