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ナディアがビリー・アイリッシュに見えてくる ー『西への出口』モーシン・ハミッド著 藤井光訳

舞台はイスラム式の礼拝が行われる南アジアの国。ナディアとサイードは出会い、恋に落ちて、ふたりで国から脱出します。脱出前が全体の半分近くで、関係なさそうな土地のエピソードが差し込まれ物語はまっすぐに進みません。(この辺、最後まで読むと伏線!)
ふたりが出会ったのは社会人向けの夜間授業で、教育を受けられる経済力と向学心があることがわかります。サイードは両親とともに暮らす敬虔なイスラム教徒。ナディアは未亡人であると偽って一人暮らしをする独立心の強い女性です。バイクに乗り、ドラッグをたしなみ、信仰心は描かれません。黒いローブで体を包んでいますがそれは「男たちに余計な真似をされずにすむから」。

武装組織による戦闘で家族にも犠牲者が出ると、二人は脱出を決意します。脱出方法は「死にも誕生にも似ている」p.82と言われる扉を通ること。暗くて狭い扉を抜け、その先は別の土地に通じています。難民小説なのですが、移動の手段はドラえもんのどこでもドアのように象徴的に描かれているのが、この小説の特徴です。扉に導いてくれる代理人(エージェント)が信用できるかはわかりませんが、他に方法はなく、しかも前払いです。扉はどこにでも出現します。こう考えると、中継のようにさしはさまれる様々な土地のエピソードがどういう意味を持つのか、少しわかってきます。オーストラリアの裕福な家のクローゼットに、南アジアの都市のベランダに、ロンドンの会計士の家に、メキシコ・ティファナの孤児院に、扉が開いたことが暗示され、人が移動します。例えば新宿の裏通りには十代後半のフィリピン人の女の子が現れます。「ふたりは彼の縄張りにいた……そこにいてもかまわないが、分をわきまえてもらわなければならない」p.27。女の子たちを最初に見つけるのはヤクザと思しき男性です。様々な土地で、もとからそこにいる人と後から扉を通ってきた人は、排斥したり、保護したり、時には出会えなかったり、恋に落ちたりと様々な関係を結びます。言葉一つをとっても、コミュニケーションが成立するときもしない時もあります。こう考えると象徴的に描かれた扉が、現代の世界でどれだけ普遍的なものかわかるでしょう。テロに見舞われたウィーンの街では、難民への連帯を示す女性が排斥主義者たちに取り囲まれる場面があります。日本でも、twitter上でもよく見る光景です。

(この後ややネタバレ)
ナディアとサイードは、扉を抜けてミコノス島へ、ロンドンへ、アメリカへ、と西に向かって移動します。難民キャンプでの保護や、出身地別のコミュニティーの形成、労働の組織化など、難民の生活が描かれます。<ふたりでいれば何も怖くない>とか<あなたがいなければ生きていけない>なんて陳腐な話だったら、私は本を投げ捨てていたところです。ふたりで一緒に過ごすことに息苦しさを隠さないし、日中は二人で別々に行動し、それぞれが親しくなるグループも違います。サイードはどこに行っても信仰心を捨てず、説教師の娘にひかれていきます。ナディアはミコノス島で助けてくれた女の子に惹かれていたことを自覚します。やや保守的なサイードを傷つけることなく、最後まで自分の意見を通して生きていくナディアの生き方は魅力的です。
最終的にはふたりは別々の生き方を選ぶのですが、それまでのふたりで逃げ続けた日々もナディアが自立していたからこそ、ドラッグをたしなむような悪い子だったからこそ可能だったのでしょう。「いい子は天国に行ける、でも悪い子はどこへでも行ける(Good girls can go to heaven, but bad girls can go everywhere) 」という言葉のとおりに。そう考えると「男たちに余計な真似をされずにすむから」と黒いローブで体を隠すナディアがビリー・アイリッシュに見えてきます。

さまざまな書評で話題になっていて、読み始めたけどなかなか自分の中でエンジンのかからなかった1冊。でも、途中から加速度的に面白くなりました。ジェンダーバイアスを吹っ飛ばすエンパワーメント小説でした。

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