ニーバーの呪い

20代から30代になってもまだ私は
私はニーバーの祈りを唱え続けてきた。
そしてその様な知恵は絶対に与えられないし自分は受け入れることもしないという思いに
しばしば立ちすくんできた

多くの機会が失われたと思います

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」

いま私はニーバーの祈りをすぐには思い出せなくなった
そのような必死で純粋で単純な最も悪しき意味で形而上学的な愚かさは遠くなった

人生において、「問題のあるその同じ次元に答えはない」という経験を経たのだと思います
次元が変われば問題そのものがなくなるし
重要なのはそもそも「変えることのできないもの・変えるべきもの」という二項対立でもなかったということ。
「変えることのできないもの・変えるべきもの」と決まっているものでもない

それは主観的だ
生きて変化する主体にその主観としてしかたちあらわれないもの。
そして
たとえば「時間が解決するもの」も必ずあるし、
しばしばそれは経験する主体の成長による認識の変化だ

「未来永劫変わらない今の自分が」を条件にしたとき、ニーバーの祈りはニーバーの呪いになる。

生真面目な人間ほどにこの呪いにとらわれる人は多いのではないか。
わたし・・ニーバーの祈りは有害だと思う。それは可能性を殺して陳腐さの中に人を閉じ込める

史上何億人もの生真面目なバカを苦しめてきたに違いない

多くの啓蒙書に言われる通り
まずは行動してみるのが正解だと思います

行動とは思考の一形態だから


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