「禅と日本文化」メモ

鈴木大拙の禅と日本文化のメモです。
一番興味深かったのは、無意識のさらに奥にあるとされる「集合的無意識」です。科学では説明できなさそうだけど、非常に面白い考え方と、共感できるものでした。

想いが願いとなり、祈りとなる。という言葉を聞いたことがありますが、まさにそれもそうでした。
平和を想い、平和を願うことで、世界が平和に近く可能性もあるのでは?と。

1.禅の予備知識

・禅は8世紀に中国から発達した仏教の一形態である。
・禅の目的は、仏陀自身の根本精神を教えんというものにある。
・この仏教の真髄をなすものはなんであるか?それは、般若(智慧)と大悲である。般若は「超越的智慧」(トランセンデンタル・ウィズダム)、大悲は「愛」または「憐情(コンパッション)」
・般若によって人は、事物の現象的表現を超えて、その実在を見得することができる。そのため、般若を得れば、生と世界との根本的の意義を洞徹しえて、単なる個人的な利益や苦痛に思い煩わなくなる。
・大悲がその時自在に作用する。それは「愛」がその利己的な妨げを受けずに、万物に及ぶことができるという意味である。仏教では、愛は無生物にまで及ぶ。
・禅の鍛錬法は、真理がどんなものであろうと、身を以て体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えない。→禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)である。
・言葉は化学と哲学には要るが、禅の場合は妨げになる。

1、禅は精神に焦点を置く結果、フォーム(形式)を無視する。
2、すなわち、禅はいかなる種類の形式の中にも精神の厳存を探り当てる
3、形式の不十分、不完全によって、精神がいっそう表れる。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくするし、内部の真実そのものに向け難くする。
4、形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性に還る。
5、超越的な孤高、またはこの「絶対なるもの」の孤絶が清貧主義、禁欲主義の精神である。それは、全ての必要ならざるものの痕跡をいささかも止めないということである。
6、孤絶とは世間的の言葉で言えば、無執着ということである。
7、孤絶なる語を仏教者の使う絶対という意味に解すれば、それはもっとも卑しいとみられている野の雑草から自然の最高の形態と言われているものにいたるまで、森羅万象の中に沈んでいる。

2.禅と美術

・禅は国民の文化生活のあらゆる層の中へ深く及んでいる。
・多様性のなかに超越的な孤絶性があるものをわび、という。
わびの真意は「貧困」すなわち消極的に言えば、「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。
・貧しいということは、世間的な富・力・名に頼っていないことで、しかも、その人の心中には、何か時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、これがわびの本質である。
・わび道が日本人の文化生活に深く入っており、それは事実「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には極めてふさわしい道である。
・知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また派手でもったいぶった思想の配列や、哲学形態のたてかたも求めない。神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの法が、われわれ、少なくともわれわれのうちにある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。
・たとえいかに文明化した環境で育っても、心の中に自然の生活状態に遠くない、原始的単純性に対し得て、生得の情景を持っているのではないか。
東洋人の最も特異の気質は、生命を外からでなく、内から把握することであろう。禅はまさにそれを掘り当てた。
・不完全どころか醜というべき形の中に、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の1つである。
・この不完全の美に、古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賛美するところのさびが表れる。
・日本の芸術の特徴は非対称性である。
芸術衝動は道徳衝動よりも原始的であり、生得のものである。芸術の訴える力は端的に人間性に食い込む。道徳は規範的だが、芸術は創造的である。
・禅は無道徳であっても無芸術ではありえない。
・非均衡静・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・わびさび・孤絶性などの日本芸術、文化の特性の観念はみなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところに発する。
・禅は鎌倉から興った(政治的・歴史的事情により)禅は武士道精神と相提携するのである。
「一即多・多即一」は二つのものはいつも同一性を持っていて、これが「一」これが「多」と分けるべきではないのである。

3.禅と武士

・日本の言い回し「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」
・禅は、ひとたびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教
・生と死を無差別的に取り扱う(哲学的)
・禅は知性主義に対して直覚を重んじる→直覚の方が真理に到達する直接的な道であるから。
・禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない、ただそれは人を生死のきずなから解こうとする。しかも、そのためにそれ自身に特有なある直覚的な理解方法によるのである。そのため、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも応用自在の弾力性を持つ。
・無心の心に達すれば、一切が成就する。それは、死とか不死とかの問題に煩わされぬ心の状態。
・禅は必ずしも霊魂の不滅や神の道の義しさや倫理的行為については彼らと議論をしなかったが、ただ、合理・非合理いかなる結論にもせよ、人がそれに達したものをもって突進することを説いた。哲学は知的精神の所有者によって安全に保存さられてよい。禅は行動することを欲する。もっとも有効な行動はひとたび決心した以上、振り返らずに進むことである。この点において禅はじつに武士の宗教であった。

4.禅と剣道

・刀は2つの務めがある。1つは、持ち主の意志に反するいかなるものをも破壊することであり、1つは、自己保存の本能からくる一切の衝動を犠牲にすること。前者は愛国主義や軍国主義の精神と関係し、後者は忠と自己犠牲という宗教的な意義を持つ。
あとは割愛。

5.禅と儒教

・禅はきわめて実践的で倫理的である。禅には自己の哲学というものはない。
・禅はその実践性を儒教から得、儒教は禅の教えを通してインド的な抽象的思索癖を吸収した。
・禅徒はときにすると儒教徒、ときとすると道教徒、またときとすると神道家とさえなりうる。

6.禅と茶道

・禅がまず知性と戦うのは、知性というものが実用には役立つであろうが、われわれが自分の存在を深く掘り下げようとするのを妨げるからである。
・哲学はあらゆる問題を提供して知的解決を要求しようとするが、われわれの精神的満足はそれによって、かならずしも与えられぬ。

7.禅と俳句

・悟りがなければ禅はない、禅と悟りは同意語である。
・禅の哲学は大乗仏教のそれであるが、禅にはこの哲学を体験するための一種特別の方法がある。それはわれわれ自身の存在、すなわち、実在そのものの秘密を直接に洞察することである。べつに仏陀の言葉や文字の上の教えにしたがったり、また、より高い存在を信じたり、また戒律的な鍛錬の公式を実践したりすることなどによらないで、ある内的体験を無媒介的にうることである。これは直感的な理解の方法に訴えるものであり、日本語で悟りという体験がそれから起きる。
・悟りの原則は事物の真理に到達するために概念に頼らぬことである。
・この直覚的知識が哲学のみならず他のいっさいの文化活動の基礎だという観念こそは、禅宗が日本人の芸術鑑賞の涵養に寄与してきたところのものである。
悟りは、心理学的に言えば、「無意識」を意識することである。
・生は神秘に充ちている。神秘感のあるところにどこでも禅がある。
・無意識は蓄積された知識の宝庫ではなくて、涸れることを知らぬ生の源泉である。ここには知識が貯蔵されてあるのではなくて、あたかも巨木が極小一粒の種子から生長するように、ここから生長するのである。
・西洋的には、人間の極限は神の機会である。
・東洋流に言えば、窮して通ずる、という真理。
偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を棄て去って、「無意識」の働きにまかせるときに成就せられる
・禅の世界は、五感、常識、陳腐な道徳論、論理的な議論を容れる通常の世界と別段に変りない。ただ、禅にはそれらの基をなす原理とか真理とかいうものの直覚がある。
・日本人の心の強味は最深の真理を直覚的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現することにある。
・俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをしない。
・人間の心は幾層からの意識によって作られていると考えうる。第一の層の人が一般に動くところ、ここでは何もかも二元的に組み立てられ、分極作用がこの層の原則になる。その下の次の層は、半意識面であり、ここに貯えられる事物はいつでも必要なとき意識の表面にもたせられる。これが記憶の層である。第三層は普通心理学者によって定義される無意識である。喪失した記憶はここに貯えられる。普通にいう心の力が異常に高まったとき、それがよみがえる、そしてそこに埋蔵されていた記憶ー誰もその期間を知らぬ、無始きょらいという、それが絶望的なあるいは偶発的な破局に起こるとともに表面にもたらされる。しかし、この無意識層は最後の精神層ではなくて、さらに深いところにわれわれの人格の地盤となる別の層がある。「集合的無意識」とも「無意識一般」とも称せらるるもの、これがやや仏教の阿頼耶識の思想すなわり「蔵識」「無没識」にあたる。

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