「遅いインターネット」読書メモ

宇野常寛さんの著書「遅いインターネット」のメモです。
テレビやネットで話しているのを何回か見ていますが、言葉のスピードがすごく早い中で内容は端的で分かりやすく、指摘が面白く、共感する点が多かったです。あの風貌と話し方が鼻につく人は多いんだろうな、、と思いつつ。

本書は、面白いと思える指摘が複数あったものの、全体の文章がなかなか読みにくく(僕にとっては)、結構飛ばしちゃいました。が、随所にあった指摘は非常に興味深く、メモしておきたいものがありました。

「境界のない世界」を生きる人々は「Anywhere」に、つまり「どこでも」生きることができる。対して「境界のある世界」にその心をおいてきてしまった人々は「Somewhere」つまり「どこか」を定めないと生きていけないのだ。

そして、この「Anywhere」な人たちの文化のルーツはアメリカ西海岸のヒッピーカルチャーであり、「Somewhere」な人たちは、急に新しい世界に投げ込まれ(変化が激しく)、ついていけず、脅え、戸惑っているような人々で、精神的にも経済的にもローカルな国民国家という枠組みの保護を必要としている。と。
そして、この「Somewhere」な人たちの帰結が、トランプ大統領やブレグジットである、というものは非常に納得がいきます。

民主主義というゲームは原理的にあたらしい「境界のない世界」を支持できない。
民主主義はむしろ、人々の心の拠り所として必要だったのだ、世界に素手で触れているという実感を与えるために必要だったのだ。

「境界のない世界」を作れた人、その世界で住める人は、いわゆる強者であり、数としてマイノリティになる。一方で、その世界に怯える大多数の人は、民主主義でそれを否定したり、打ちこわしてくれるような人に投票するから、この境界のない世界は、民主主義の中では政治的には受け入れられないということですね。

そして、この世界に素手で触れているという実感というのはなんとなく分かります。自分が世界から置いてかれるというのは不安に感じるでしょうし、その世界に置いてかれないための投票と、自分もその世界に関わっている一員なんだという手触り感を投票によって味わうのでしょうか。

「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。(中略)いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。」ー村上春樹

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」にもあるように、自由でいることというのは強い人間じゃないと耐えられないのかもしれないですね。
何かに寄りかかっている方が楽だし、自分のせいにもならないし。。。
ただ、ナチスが民主的に生まれたように、思考停止をして特定の主義主張に全面的に寄りかかるのは非常に危険だとも思うので、しっかり考え続けるということはこの時代に生きる我々は半分義務ぐらいで考える必要があると思います。

僕たちは既に国家よりも市場が、政治よりも経済が広範囲に、不可逆に、決定的に人々の生を支配するあたらしい世界に生きている。しかし、僕らは民主主義という政治的なアプローチを超える意思決定のシステムをもっていない。

ここは大事な指摘だと思います。経済が政治を包摂するような状態になっており、これは不可逆的である。と。
政府に期待することも、だいたい「景気回復」とか「経済成長」がほとんどですが、そもそも経済って、経世済民で民を救うこととか、国民をより幸福にするにはどうすれば?という中での経済のはずなのに、経済成長と幸福度はもう比例していないのに(ある程度の所得以上では)、それでも大きな国ビジョンを示せず(それやると負けるのかな)、経済中心になり、結果として格差は拡大していく、、、、

トリクルダウンというようなものが成り立たないのは自明で、AIの進化とともに格差拡大と不用者階級の人たちが増える、というのは間違いなさそうなのに、、、

そもそも人間とはすべての選択を自己決定できる能動的な主体=市民でもなければ、すべてを運命に流されていく受動的な主体=大衆でもなく、常にその中間をさまよっている。

市民運動などを行う、左翼の文化が残っている「意識の高すぎる市民」たちが、自分探しをしている、ということや、選挙が相変わらず「意識の低すぎる大衆」たちを対象にしたどぶいた選挙が支配戦略になっている、と両者を批判しています。

「モノからコトへ」の移行は同時に「他人の物語」から「自分の物語」への移行でもある。

テレビでの他人の物語を見ることから、フェスやSNSなどでの自分の体験の物語への移行などです。

21世紀の今日、僕たちは情報技術を「ここではない、どこか」つまり仮想現実を作り上げるためではなく「ここ」を豊かにするために、つまり拡張現実的に使用している。

インターネット初期の状態から、SNSなどの現状への移り変わりです。

人々の「信じたい」欲望を逆手に取ってよりよい物語により巨大な動員力を与えよと主張することは、要するに考える力を持たない大衆から搾取せよと述べているに等しい。

今日のラジオで、トランプさんが選挙活動を始めた。激戦州で演説した。「アメリカをより偉大にする!」と言った。と。。。それで盛り上がるって一体、、、、と思いましたが、トランプさんの支持層は、「トランプ大統領をうまく利用したいと思っているエリート層」と「トランプさんが偉大なアメリカ(なんのことか定義分かりませんが)に戻してくれると信じたい大衆層」が支えているんでしょうね。

考える力を持つというのは本当に大事な力ですね。

インターネットの登場はむしろテキストや音楽、映像の受信を簡易かつ供給過剰にすることによってその価値を暴落させ、人々は自分だけの体験を求めて現場に足を運び参加するようになる。

コロナ禍によって直接の体験は減っていますが、動画や映像が過剰になると、より自分の体験や、自分の内面を深掘るようなサービスの価値が上がりそうです。

人類が社会を機能させることができるのは、虚構を用いることができるからだ。魂、神、そして国家ー物理的には存在せず、幻想としてしか存在しないものを人々が共有することよって、はじめて社会は機能する。

お金も集団幻想だし、この虚構を作って共有できる能力というのはすごいんですね。最近の株や不動産の値上がりなんかも、この虚構、共同幻想ゆえのまやかしみたいなもんですね。

既に多くの国家にとって政治とは富の再分配であると同等か、
それ以上に承認の再分配の装置である。

面白いー、国家は承認の再分配の装置!
あなたはこの世界にいていいんですよというのを置いていかれた「somewhere」の人々が、選挙によって自分を承認してくれる人を選ぶ。

国家自体も共同幻想なので、その国家に頼って、自分で考えるのを止める。という選択をしてしまうと、ものすごいリスクを追ってしまっています。

戦後からの復興、経済成長での幸福、といった大きな物語は少なくなってくると思うので、自分自身の小さい物語や家族、友人、地域の人たちとの自分の物語をどう作っていくのか、考えないといけないですね。




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