「動物と機械から離れて」読書メモ

タイトル:「動物と機械から離れて」ーAIが変える世界と人間の未来ー
著者:菅付雅信

金儲けを目的として必死に働く人たちのお陰で、私たちはみな経済的に裕福になるかもしれない。
だが、経済的な必要から自由になったとき、豊かさを楽しむことができるのは、生活を楽しむ術を維持し洗練させて、完璧に近づけていく人、そして、生活の手段にすぎないものに自分を売り渡さない人だろう。
しかし思うに、余暇が十分にある豊かな時代がくると考えた時、恐怖心を抱かない国や人はないだろう。
人はみな、長年にわたって、懸命に努力するようしつけられてきたのであり、楽しむ様には育てられていない。
特に才能があるわけではない平凡な人間にとって、暇な時間をどう使うのかは恐ろしい問題である。
「孫の世代の経済的可能性」より。ジョン・メイナード・ケインズ

仕事が楽しくてしょうがない人は、そのまま仕事を楽しみながらやっていけば問題ないでしょう。一方で、仕事が楽しいものではなく、お金を稼ぐための手段となっている人は、これだけモノが溢れ、テクノロジーも進化しているのに、このケインズの100年前の予言通りにならないのはなぜだろう?と思うかもしれません、それは資本主義の構造の問題や道徳観の問題だとも思いますが、この、「長年にわたって、懸命に努力するようにしつけられてきたのであり、楽しむ様には育てられていない」というのは、なかなか強烈ですね、、、そうかも、、

懸命の努力の先に、幸福や充実した人生が待っているというのであれば良いですが、努力は裏切らない!という時代でもないからなあ、、

そのような先が見通しにくい現代において、AIによって世界はどうなっていくのか?人間はどうなっていくのか?というのを著者が多くの専門家との対談で考えていく本です。章によって違う対談者なので、とても興味深いところと、興味がわかずに飛ばした章もありますが、多くの問題提起や示唆があって面白かったです。

大人になったら働いて家族を養うという旧来的な仕組みは、実は充実感が大きいわけです。しかし、ロボットやAIが労働をかなりやるようになったら、ベーシックインカムが導入されて、労働の充実感が減少し、生活にぽかっと穴が空いてしまう。週40時間労働だったのが、週20時間で良いとなったときに、残りの20時間をどう有意義に過ごすのか、このままいくと、多くの人が早々と定年になったオヤジみたいになってしまいます」ー松原仁
「働くことの意味を剥奪されると、人は存在の理由を失う」
ドストエフスキー

在宅ワークの拡大やテクノロジーの進化で、それを感じる人は増えると思います。1日8時間働いていたのが、半分になったら何をするのか?そこから充実感を得られるのか?ただ、時間を浪費してしまうのか?果たしてそれは幸せな生活なのか?そもそも幸福とは?と、連鎖していきますね。

旧来的な仕組みが実は充実感が強いのは、とても共感します。例えば、向上勤務できっちり1日8時間働き、休みの日は家族とリフレッシュや、ビール片手に球場で好きなチームを応援。というのは、すごい充実してるんだろうな、羨ましいなぐらいに思ってました。が、その物語が続かない(そんな安泰した仕事もなくなれば、そんな日常が続く時代でもない)今は、自分なりの納得した生き方を自分で考えていくことが重要だと感じます。

AIがその膨大な感情データをもとに、あらゆる消費行動においてレコメンデーションを行う世界がやってくるかもしれない。そうなると「人間の動物化」が進むのではないか。
日本人が大きな理念や物語を失い、ただモノや記号を消費するだけの時代(それを東浩紀は「ポストモダン」と呼ぶ)に入り、それは人間の動物化を意味すると説いた。
ポストモダン社会になり、消費者はさまざまな記号の波を軽やかに渡っていくことになりました。実際にそこに拡がったのは、消費のなかで与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べることになる。どいう現実だった。
自分が何が正しいかを判断する思考力がなければ、雰囲気に流されてしまうだけでしょう。齋藤幸平

日々のネットでの広告や、アマゾン、楽天、音楽や映画のリコメンドや流れてくるニュースに対して、私たちはどれぐらい自分の意思で行動しているのか?考えているようで丸投げしているのか、もしくは自分よりもリコメンドが知ってくれていると思って思考停止に陥るのか?
ちょっと批判的に考えていかないと、主体的に生きているかのように操られて生きているというようなマトリックスの世界に普通に陥る時代だと思います。

「動物には精神がないから、単なる機械である」
「人間には精神があるから、単なる機械ではない」
ーデカルト
人間と動物の差異は「欲望」と「欲求」である。
人間は欲望を持つが、動物は欲求しか持たない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。
アレクサンドル・コジェーヴ

ただ、人間だって動物だし、満足しているなら、思考停止で生きていくのも悪くないんじゃないか?という考えもありますし、実際、無意識のまま生活をしていて、気づいていない人も多いのではないかと思います。

自由の条件は、「自由から逃走するという自由」を認めることです。
21世紀にはいり、努力すれば生活がよくなるといったヴィジョンを多くの人が信じられなくなっている。ゆえに、努力しない自由も保障されるべきでしょうね。                       大屋雄裕

確かに、強制的に自由は、また変な自己責任論が出てきちゃうので、こういった自由も保証した上でのベーシックインカムなんかがやはり必要ですね。

哲学は意識の問題にこだわっているんです。人間とは何か、存在するとは何か、考えるのは誰か、ということを確かめたいから哲学や思想はあるわけです。それがなければ無意識の生活、あるいは自動化した生活になる。その状態がまさに進行している、さらに、無意識の生活を送れることに対して、「それで何が悪いの?」という考えと、「それで大丈夫なのか?」という考えとが対立しています。
自動化した生活、あるいは無意識的な生は、新しいものを生み出さないです。                         ー石田英敬

ただ、結局無意識の生活をしていると新しいものが生み出せず、ただただ、消費する側の人間になってしまいます。また「ホモ・デウス」で言われている無用者階級(雇用不要で社会のは繁栄などにも役に立たない人)となってしまう、、、(この言い方は強すぎるようにも感じますが)

それでも開き直って、動物化・無用者階級全然OK、オレはそう生きる!ぐらいの骨太の人はアリだと思いますが、多くの人はそんなこと言われたら、そうはなりたくないと思うでしょう、僕もです。

じゃあどうするのか?いくつかのヒントと思った部分がありました。

人間に残された唯一の能力は、見えないものを見る力。データにないものを考える力と言って良い。人間はその力をもっと働かせるようにならないとデータに動かされる存在になってしまう」           山極寿一
「我感ずる、ゆえに我あり」頭だけでなく身体性を持って考える存在が人間である。と捉えたのが西田幾多郎や今西錦司

いわゆる西洋的な考え方でここまで発展してきた世界の大転換期に入っている中で、主流はテクノロジー系での超優秀な人材を目指すのでしょうが、一方で、東洋的な思想、身体性、直感力、といった人間ならではの能力を活かすというのが、今後の時代を生きる1つの方向性なのだと感じます。

今までの常識や価値観に引きずられずに、自分にとっての仕事とは何か、生きるとは何か、人生とは、幸福とはといったとても抽象的で回答もなさそうな悶々としそうなことを考えつつ、行動しつつ、少しずつアジャストしていく、そんな感じが良いのかもしれません。

「AIによって、ルーティンな仕事の代替が進むことを嘆くのではなく、ルーティンでない、新しい仕事を、生き方を作ろう。」著者
「今日の人々は、働く手段はかつて以上に持っているが、
なぜ生きるのか?という意味はもっと失っている」ヴィクトールフランクル

こういうことですね。

「ビッグデータは過去を成文化する。ビッグデータからは未来は生まれない。未来を創るには、モラルのある想像力が必要であり、そのような力を持つのは人間だけだ。」               キャシー・オニール

データを元に考えてしまいがちな時に響きますね。モラルのある想像力。良い言葉ですね。

20世紀的な幸福感、それも戦後の大量生産・大量消費を背景とした物質的、経済的幸福感は、かなり色褪せてしまったということだ。幸福は、モノ的で外在的なものから、よりコト的で内在的なものになりつつある。そして、AIの普及は、人間が「自分にとっての幸せとはなんだろう?」と考える機会と時間をより増やすことにつながっていくのではないか。著者

AIを敵などと見なすのではなく、それらとどう付き合いながらより善い人生を送るにはどうするのか?と考え、実践していきたいですね。

あとは、やはり旧来の資本主義の限界はどう考えても感じているので、アメリカのような社会を目指すのではなく、もう少し日本独自の方向性とか政治リーダーが思い切って出してくれるといいんですけどね、、、ベーシックインカムはもっと本気で考えるべきじゃないかと思います。

責任というのは力の持っている人間がとるもの。
今は逆で力を持っている人間んは責任をとらない、弱い人間にとらせている。「しょぼい生活革命」より

ほんとその通りだと思います。強者が自己責任で、それを弱者にまで適用させちゃいけない。健全な社会にならない。

以下は、メモです。

「私たちに自由意志があり、それを実現するのが、自由だという発想の困難は、肝心の自由意志が非常に不確かで、把握が難しく、一貫しない点にある。自由のためには何よりも自由に使える時間の余白が必要であり、余剰の資金が必要である。つまり、自由が継続的に保証されるためには、他の何かを「しなくていい自由」が不可欠なのである。平野啓一郎。

何をやらないのか?ということの大事さと、やはり現実的には、余剰の資金がないとそんな考えられないですね、、、お金に働いてもらう(基本はつみたてNISA、iDeCo、投資信託で全世界連動もしくはアメリカ株連動の低コスト商品の長期積立投資)などは考える必要ありますね。

「第四の革命」ルチアーノ・フロリディ
①コペルニクスの地動説
②ダーウィンの進化論
③フロイトの精神分析。私たちは自分自身を理性的に統御しているわけではなく、無意識に大きく影響を受けている、ということ。
この3つの革命は、我々の外的世界に対する理解を変えるとともに、科学は我々が誰であるのかの概念、すなわち我々の「自己理解」をも変えた。
宇宙、動物王国、そして精神の中心からも追い出された人間のもとにやってきた次の革命は、アラン・チューリングがもたらした情報革命だった。
④情報革命→人間は情報圏の中心にはいない。
しかし、人間はこの宇宙で唯一のセマンティック(意味論的)エンジンだ。という。

4つの革命で、この4つがピックアップされるの面白いですね、特にフロイトが入るんだ!と。集合的無意識とか、そんな重要な要素だったのか、と。

高度にほのめかされ、誘導される社会が築き上げられようとしている中で、ひとつの大きな問題が生じようとしている。それは、社会から「偶然性」が減っていくという可能性だ。
わたしが落ち込んでいる時でも、ソーシャルメディアは「美しくあれ、幸せであれ」と常にプレッシャーを与えてくる場所です。なので、本当の感情をオープンにできません。
人々のウェルビーイングが向上するためには、安心できることが重要。
「自由とは、規制の総和のなかでしか残されていないものです。そのことに自覚的になりながら自由を確保していく必要があります。けれども、技術は複雑になり、流通する情報量は増え、新しい中世のような世界が立ち現れてきている。情報量の激増は、もう人間の生物的な処理能力を越えつつあるんですよ」大屋
ソーシャルスコアなどで、自分では変えられない要因によって低いスコアが出る人が現れる可能性があり、その状態を「バーチャルスラム」という。点数の低い人が信用力を背景にした取引から自動的に排除され、彼らが仮想空間の中で身を寄せ合う「バーチャルスラム(仮想貧困)」が生まれる可能性ある。

バーチャルスラム!!まさかそっちの世界にも貧困が、、、言われればそうなりそうな仕組みですよね。アメリカとかカードないとそんな感じなんですよね。

法や道徳による個人の自由の規制からアーキテクチャによる個人の自由の規制に主導権が移りつつある情報社会においては、個人のあり方や国家、ガバナンスのあり方が変わるのではないか?

中国のような国家資本主義・超監視社会が成り立つ先にはどうなるのか?行末が気になりますね。自由と安全のトレードオフ、その先の幸福はどうなるのか?成熟していったあとはどうなるのだろう、、、

格差が大きく拡がるかもしれない時代において、将来、幸福を最も感じることは「次世代の子供に期待すること」になるのではないか。

なんか、、、わかるような気がします、、、

Aiの出現により、私たちは今まで以上に「わたし」という”内なる他者"と向き合わなければならなくなります。「わたし」とは誰なのか?「わたし」は何を欲しているのか?何を幸せに思うのか?それらがAiによって規程される前に、まずは自分と向き合う必要があるのではないでしょうか。

向き合い疲れてしまいそうです、、、、

長くなりましたが、読書メモこれで終了です。

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