「アフターバブル、近代資本主義は延命できるか」読書メモ

なんか新聞の広告で気になっちゃって、買ってみました。納得できる内容と、著者の主張には共感できる部分が多々あったので、良き出会いでした。

プロローグ バブルがつくった経済成長、壊した経済成長

バブルは繰り返す。というのは常々思ってましたが、近代資本主義そのものがバブルである、という著者の主張は面白かったです。

バブルとは「外部の力で膨らませたもの」
バブル経済とは、「自給自足から外れた経済状態、すなわち、同一の規模で経済の営みの循環を繰り返す安定的な状態から外れた状態」、と定義する。

自給自足から外れる、安定的な状態から外れていくというので考えると、確かに近代資本主義は、資本の拡大再生産が起こるので、それはもはやバブル経済であるというのは納得です。

経済は通常は定常状態である。毎日同じ営みの繰り返しである。

確かに、とは思うが、世の中の大多数は、経済成長がないと日本は没落して不幸になる、という雰囲気じゃないでしょうか。ただ、モノが足りなかった時代でもなく、これだけ高度経済成長などを経て、豊かになって、果たしてその分日本人は幸せになったのか?(もちろん幸せになった人も多ければ、そうじゃない人もいるのだと思うが)経済が成熟して、人口減少局面の日本では、経済成長ではない方向性で世界を引っ張れないのだろうか?と常々思ってますが、いまだに経済成長至上主義みたいなのは嫌気も差してきます。

都市部の大量消費のための供給の下働きをさせられている人々が、都市部に住むために自給自足ができず、金銭でモノを入手することになり、金銭的所得が低いと貧困となってしまうのである。貧困とは都市問題であり、格差社会とは経済成長がバブルにすぎないことの帰結である。

格差社会で、今後も勝ち組負け組のような下品な言葉で格付けをしていくのだとしたら、それはとても社会が荒んでしまう気がします。自ら、この資本主義の大きな流れから少し外れて自給自足をする(完全に文明否定するような自給自足じゃなく)という生き方は必要だと感じます。

我々は、自給自足という基本の循環経済社会に戻り、衣食住そして医療、教育という基本的必需品に関して、絶対的な品質水準を社会全体で少しずつ上げていくような、現代において忘れられた本質的な経済成長を求めていくべきではないだろうか。

同意。

第1章 バブル・アフターバブルの30年

この30年てのが、整理されていて面白かったです。まずは、90年代はソ連崩壊、東欧が資本主義に組み込まれていくところから始まっていきます。

90年代前半:ソ連崩壊・東欧が資本主義陣営に入っていく
90年代中盤:東アジアの奇跡
90年代後半:テックバブル(ドットコムバブル)

ソ連崩壊で資本主義の勝利が決まり、旧社会主義だった、東欧なども資本主義になっていきます。その過程で資本主義はより勢いがつき、またインターネットの勃興で、テックバブルが膨れ上がっていきます。そして、テックバブルの崩壊が起き、01年の米国同時テロ、エンロンショックで大きく変わっていきます。

同時テロ、テックバブル崩壊で不況に陥ったので、金融緩和をして下支えをしようとします。ドルの流通量を増やします。
でも、テックバブルが弾けたから、新興企業に対して不信があります。エンロンの不正会計問題もあり、株式市場への不信が広がります。
そのため、ドルの供給量を増やしても、ドルは米国内には戻りません。では、そのドルはどこにいくのか?

後進国(新興国)やオールドセクター(資源や不動産など)に向かいます。
そして、BRICsがもてはやされたような新興国や、資源や、不動産に大量のお金が注ぎ込まれます。

しかも、エンロンショックで株式不信はまだ残ってたから、新しい金融商品かつ高い利回りのところにお金が向かっていく。
その新しい金融商品の最たるものが、サブプライムローンなどの証券化したもので、不動産で新しい金融商品で利回りも高い、というので、お金が大量に流れ込み、結果、リーマンショックに繋がります。

で、今度はリーマンショックでピンチだから、また金融緩和をして、さらに中国も巨大な財政出動を行ったので、またお金があまり出して、結果株式や不動産が上がり始め、またバブルが、、、

そして、高すぎたのが、今回のコロナきっかけで一度暴落するも、また大規模な金融緩和をしているので、結果そのお金が株式市場などにも向かってあっという間にまた史上最高値などに、、、

なんか、ピークを過ぎた老人に、栄養ドリンクや栄養注射などで無理やり元気にさせようとしている感じですね。。。

第2章 コロナショックは史上最大級の危機か

いやそんなことはない、普通の不況だ、というのが著者です。
理由は、金融機関も傷んでおらず、ストックが傷ついているのではなく、フローが止まったことによるショックだから。というものです。

一方で、バブルが弾けそうだったもので、今回のコロナショックで弾けずに延命したため、またバブルのタネが大きくなっている、とのことです。

堕天使債や、格付けの低いものまで中央銀行が支えている。

第3章 全ての価格はバブルである

資産価格はすべてバブル、実物であることを根拠にした金融資産の価格はもちろんバブル、さらに資源という実物そのものの価格もバブル。金融商品とは無関係のその他ほとんどすべてのモノやサービスの価格も実はバブル。たまたま決まった価格にあわせて、生産構造、産業構造が構成され、需要構造も決まってくる。そして、それがいったん崩れてしまうと、その商品、その産業自体が存在しなくなる。

お金というのは集団幻想である。というようなものを思い出します。みんなが集団で同じような価値があると思っているから、そうなっているだけで思わなくなったら、全てがまやかしで成り立たなくなる。

今まで無駄な消費をしていた、それが消えた。不要不急のものを避けてみると、不急なものの多くは不要だった。

これは確かにー!不要なものが思った以上にあった。

バブルは、バブルを盛り上げた人々が崩壊の不安におびえ、実際にその対策をとることで、つまり、売り逃げようとすることで、崩壊が実現する。

みんなが踊っているうちは踊り続けなければならない、でも一番出口の近くでね。ということでしょうかね、うまく出口の近くで逃げられるのか、自信はない。。。

第4章 日銀が行うべきは「新次元の金融政策」

果たして出口なんてあるのだろうか、、、

第5章 「安心」神話が財政を破綻させる

安心というものを求める。ゼロリスクなんてないのに、それを求める。そのことによる思考停止が日本で起きている。といような内容です。

不安解消のために、カネを使っているからである。そして、不安はカネでは解消されない。この結果、永遠に経済対策が必要になり、混迷を続けることになるのである。

今がそんな感じですね。

第6章 「アフターコロナ」の資本主義

企業と起業家は、広告を駆使して、人々の消費意欲を刺激し、富に余裕のある人々に目新しいモノ、サービスを消費させる。そして支出増大させ、利益を上げ、経済規模の足元の拡大を実現する。ただし、それは新しいぜいたく品、「非」必需品、つまり「無駄なモノ」の消費を拡大させることにすぎない。しかし、それしか経済拡大の源泉はない。

無駄なものを、必需品と思わせて、買わせる。。。
なんとも虚しい感じですが、実際そういったものが多くある気がします。
その経済拡大の先には幸せはあるのか?どこまでの成長を目指して、どこまででやめておく、方向性を変える、足るを知る者は富む。
やはり、大きく方向転換するタイミングでは?

現在のほとんど全ての経済成長は、ぜいたく品を必需品と社会に思い込ませ、企業群が利益を上げることにより、実現しているのである。それが現実なのだ。

広告に溢れている中で、本当に必要なものってどれくらいあるのだろうか?その広告に促されて買ったもので、どれだけ自分は満足したのだろうか、幸せになったのだろうか?それを買わなかったとしたらどうだったのだろうか?
お金を稼ぐ方法が多く言われている中で、どれだけ良いお金の使い方をするかを書いている本などは結構少ない。どう使うと自分にとって満足なのか、世の中にとって良い使い方ができたのか、考え続けたい。

現代経済社会に生きる我々は、皆、商品作物を作って生きている。商品のほとんどはぜいたく品だ。ぜいたく品は一旦売れなくなったら誰も買わない。
これが変わる。自分でも使うものだけがつくられ、自分で使わなかった部分はお裾分けを仲間にする。少しは外部に売る。自分でも必要な必需品が作られ、交換され、売買される世の中になっている。人に売るためだけの商品は誰も作らなくなっているだろう。

資本主義が急に転換するとは思えないが、さらに加速させる必要はないのではないか。これだけ、テクノロジーが発達して、限界費用が下がってきている中で、どういった社会にしたいのか、その中で自分はどう生きていきたいのか、そういったことを考えるようにしたい。

おそらく、テクノロジーに強い高度な人材は引く手数多だろうし、起業家なども多くのチャンスはある時代になっていくと思う。ただ、その超絶優秀かつ熱いパッションを持っているような人たちを目指していくのか、を考えた時に、たぶん堕落ポテンシャルのある僕はそこは目指せない、、、

かといって資本主義に振り回されて疲れたり、ストレスにまみれながらなんてのはもちろんいやだ。そうなってくると、テクノロジーをうまく使いつつ、自給自足に近い暮らしができる。無理なくコンパクトに暮らせるというのはベースとしてはとてもいいんじゃないかと思う。

健康であり、それに少しの楽しみがある、ささやかな幸せこそが、素晴らしい人生と社会ではないのだろうか。それが実現できない高度な経済社会とは何の意味があるだろうか。

この本を読んでいると、著者の怒りも感じるし、どういった世の中がいいのかといったものも伝わってくる。こういった本はもう少しデータを元にした淡々としたものかと思っていたが、思いの外、熱い気持ちがあるような本で、良い意味で意外だった。


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