日記_240724

私だけみたいだ、空を飛んでいった花のことを覚えているのは。

みんな居なくなった。答えの無い愛に少しだけ触れられた気がするけれど、まぼろしだったのかもしれない。何度も言っているけれど、忘れてしまうことが怖いんだ。みんなは忘れたことすら忘れてしまったみたいだけれど。私は覚えているからね。

ありきたりの質問かもしれないけれど、余命があと少しだとしてどうする?

ちょうど長らく生きている私の世代なんかは、"人が死ぬ"ということを知ったかぶってるわりに、まるでフィクションに捉えているように思える。繰り返されていく日々がまた明日も繰り返されていくと思い込むか、新しい家族等が出来ることによる安心感、それに伴う生活の一新によるパッケージ化された幸せな人生に身を委ねることで、なんとなく死から遠ざかっているのかもしれない。そんな死と相反する世界に生きているからなのか、戦争反対なんか言って死を悼む感じを出している人間も、現実的に目の前で死にかけている生命には見向きもせず"映画の中のような"死の悼みに酔っているだけだ。恐怖を求めてジェットコースターに乗るのと同じ。ホラー映画を見るのと同じ。安全圏から死を眺めるというある種の快感を感じているのだろう。世界平和をもし祈るのであれば、目の前の人を本当の意味で愛することこそが"それ"だよ。少なくともあなたよりは考えたよ、世界平和についてだって。死の悼み感に酔っているからわからないだろうけどね。

許すこと、忘れること、前に進むこと。私にはできないようだ。憎しんで、臥薪嘗胆して、立ち止まっている、救いようの無い愚かな人間こそが私だ。思考停止すれば簡単な選択肢に、一々引っかかって自問自答するのが私だ。何より悲しいのがこの言葉自体が伝わらないことだ。世の摂理なのかもしれないが、伝わるべき人には伝わらない。生きるべき人間は死に、死ぬべき人間は生きる。考えるべき人間は考えず、考えすぎな人間は考える。正しい、が無いことがわかったところで何を目指して歩けばいいのか。こんなことを話してもキョトンとされて終わる。この機内に私と同じ言語の方はおりませんか。おりませんね。ずっとそうだったから、仲間が見つかったとして警戒心は最大値を叩き出すだろう。

裸で抱き合いたい。単純に物理的な話なのかセックスのような話なのかそうでないのかはわからないけれど、生命の琴線に触れるような触れ合いが欲しい。たぶんそれが唯一自分自身を生かす術、いやそれ自体が目的なのだと思う。音楽を未だに作っているわけだけど、わからないんだ。人の心が。音楽を介した関係には裏切られ続けて、耳にタコができるほど言い訳も聞いたけど、その果てに"未だに"作ってる音楽は悲しさだけ深めていっている。

「まだ音楽作ってるんだね」

まだもクソもないよ。この言葉の意味もわからないだろうけど。ああ、期待しているさ。だから苦しくてしょうがない。あなたみたいに苦しみを手放してないからね。

ありきたりの質問かもしれないけれど、もう一度聞きたい。余命があと少しだとしてどうする?

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