日記_240627

10年。私が死んだり再生したりしている間に、あなたたちは健全に傷ついたり喜んだりしていたんだろうね。在る景色は同じであろうとも、網膜から先の話は違うのも仕方ない。まるでアッパードラッグのキマったかのような健常者には、私の景色はわからないだろう。炎天下を屍のように歩き、恨めしくビルの影に飛び込む生命をあなたは知らない。病気だとか障害だとかの言葉で村八分にすることで理解を拒絶されても、まだ生きているよ。

"大人"のいう通り私は馬鹿げた人間だと思う。戦うことを辞めてしまったから。意味を無くしてしまったから。守るものがなくなったから。人間ってね、自分のために生きられるほどの厚顔無恥なエゴイストになるか、人のために血を流すことを信じ切れる勇気か、そのどちらかが必要なんだよ。そして、それより先のことを考えてはいけないという思考停止。それは学校では教えないし、知っている人たちはみんな死んでしまった。「きっと大丈夫」だと言ってくれる人から順番に。

「生きることが何なのかわからない」と質問をすると、"大人"は「答え」が欲しいのだと勘違いしてそれなりの回答をしてくれる。違うんだ、あなたと見つけに行きたいだけなんだよ。答えばかり学んできた"大人"は、旅路こそが目的だということを徐々に忘れていってしまうらしい。それともその旅路は最適化されていないと馬鹿げていると思っているのか。"正しい"ものがあると錯覚するには十分すぎるこの世界の構造は、真に受けて正常に生きるか、斜に構えて冷笑する以外にその現実と付き合う方法はあるのだろうか。それとも確証バイアスの果ての"正しさ"を"正しさ"と言いきる?それが正義なの?私にはいまだにわからない。わからないことが多すぎて物心ついた子どものようにずっと無垢な質問をし続けていたら、自分の周りにたくさんいたはずの"大人"はいなくなってしまった。

"大人"とのコミュニケーションは難しい。言語で「答え」を説明できると思っているから。そんなことないと知っているのは子どもと"大人"にならなかった人たちだけだ。コミュニケーションは言語・非言語とあると思うけれど、それ以外もあると思う。コミュニケーションの定義を「その人のもたらす情報が自分に影響を与えてくること、またその逆方向である」とするならば、言語・非言語のコミュニケーション方法に縛られる必要はない。直接的に言語・非言語でコミュニケーションを取らずとも、存在自体が他者に影響を与えられる場合もコミュニケーションであると言える。例えば、音楽は今ではサブスクなどで自由に聴くことができるけれど、聴かれている側はどこで誰に聴かれていることを知らない。直接ではない。相互ではない。しかしこれも「その人のもたらす情報が自分に影響を与えてくること」なのでコミュニケーションと呼べるはずだ。他にも例えば、私があなたのことを思い出すだけでも、それはあなたという存在に影響を受けるのでコミュニケーションを取っていることになる。私たちが存在すること自体がコミュニケーションの媒体となり得る。それは想像の中の出来事でしかないと思う?でもそれ以前に、あなたの目の前の世界もあなたが作り出したものだよ。それと何も違わない。

だから、存在することに希望を持ってもらうことはできませんか。私はあなたの存在とコミュニケーションを取るから。この世界から消えないでほしい。"大人"の"正しさ"を真に受けて、消えないでほしい。生きる理由とまでの大それたものではないことはわかっているけれど、死なない理由の足しにはならないだろうか。

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