日記_240401

生まれてきた時から見てきたものの異常さというのはわからないものだ。空気の味がわからないように。役割を持った自分しか愛されることはなく、役割を手放してしまった今、私を愛するものは私を含めて誰もいなくなった。愛は「役割からの解放」だと定義するのであれば、私を愛する人は、私の人生において居なかったようだ。

わかっている。自分が期待しすぎていることは。役割を全うすることで愛されていると錯覚しながら生きることが、多くの人にとっての幸せな人生であることもわかっている。自分がおかしいだけなのはわかっている。しかしこれは病気などとは違い、"治る"あるいは"直る"類のものではない。

私がここで自殺をしたら鬱病による認知の歪みによるものという死因になるのか。では助けを呼べばどうにかなるものなのか。医者やそれらの出す薬で助かるものなのか。カウンセリングで救われる何かなのか。たぶん違うと思うんだ。その意味さえも理解されないことにはいまだに釈然としないけれど。

長い、といったら年寄りに笑われるかもしれないが、自分にとってこの人生の苦痛の時間は長すぎる。もうおそらく一生分の濃度は味わったように思う。怪我や(精神的以外の)病気による苦痛はもちろんそれで理解しているけれど、精神がこの世界を作り上げているのであれば、精神によって世界はどこまででも苦痛になれる。逆も然りで。どれだけ不幸な状況だと思われる人でも広義での幸福を得て生きる人もいるし、どれだけ恵まれた状況だと思われる人でも苦しんで自殺していく人もいる。精神次第でどうにでもなる。だからこそどうにかできるかと思って生きてきたけれど、その糸口は見つからなかった。たぶん役割のない自分を本当の意味で愛するという経験を得られなかったからだと思う。そう思って振り返ると、この人生は早々とバッドエンドへ舵を切っていたのかもしれない。最期くらい愛する人に看取られたかったな。私を愛する人に。それは自分自身でも良いのにそれすら叶わないようだ。

人は死んだら、本当の意味でその人自身は消えてしまう。「みんなの中で生き続ける」だとか「作品は生き続ける」だとかは戯言に過ぎない。死んだ人のその周りの連中は、各々の世界の中でその人を再構築して記憶という名前にすり替えておくだけだからだ。でもそれはその人自身ではない。記憶した者にとって都合の良い役割を演じたその人でしかない。

だから今のうちにばら撒いておこうと思う。私自身の欠片を。それがたった今きらめいていたらいたらいい。あなたの記憶の中の私がきらめいていようとも、それは私自身ではない。それだけは確か。


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