日記_240610

仮に幸福に生きるということが人生の目的なのであるとして、最近多く見受けられるのが「損しない」「傷つかない」こと=幸福だと思っているタイプだ。それ自体は別にまあ好きにしてくださいという気持ちでしかないのだが、年齢を重ねるにしたがってそのタイプ、自分は「生活中心主義」と呼んでいるが、それが増えたように感じる。最初からそういう人はそもそもあまり深くかかわらないので良いのだが、親しい人がそうなっていくと悲しいというかやるせないというか、そういった人間に自分はとことん嫌悪されるので、実質的に絶縁するような状態になってしまう。それが年齢におけるよくある変化のパターンなのか、時代が引き起こす事象というパターンなのか、はたまた連続して起こった現象を注視してしまうバイアスなのか、答えは分からない。悲しいことだが元々のバンドメンバーもそういった状態に移行していったのだと思う。直接そういった話はしていなかったが「生活中心主義」的な思考に於いて、バンドのような共同体活動の傷ついたり無駄のように思える時間を重ねるような「ロマン中心主義」とでも言える考え方が肌に合わなくなったのだと考えると、メンバーの行動や言動の裏に通っている筋が見えるように感じる。みんな居なくなった事実に対しての気持ちの整理はだいぶついたつもりでいたけれど、まだ悲しくて泣きながら目が覚める日もある。やめていった側の人間はやめた事実に向き合うことすら忘れて「生活中心主義」の輪っかの中でおそらく幸せに生きているのであろう。

愚痴が言いたいからこの話をしたわけではなくて、そういった自分が否定的な感じ方をしている価値観に"目覚め"ちゃっていく親しい人を見ることがつらい。そしてそれを受け入れ「そんな生き方もあるよね。」みたいなライトなスタンスを取れない自分を相当に憎んでしまっている。「生活中心主義」の考え方である「目の前の生活が大事。限られたリソースの中で細々と生きる。人のために傷つく時間なんてありません。」という考え方自体が自分の人生の否定に他ならず絶望する。「絶対にその考え方を以て人として生まれ生きることに幸福を見出せるはずがない。」と、自分の実存の肯定のために正義が暴走しそうになる。そう、自分のためだ。私という生き物は、本当にどこまで落ちても許せない生き物だ。

情けない話だけど慰めてほしい、というより多少なりとも理解してくれる仲間が欲しい。自立した人間は自分で自分の機嫌を取れるなど当たり前すぎてしょうもないことをのたまう人もいるが、機嫌というのは生きることを肯定できるようになった元気な人間の自立に於ける話で、徹底して精神的に孤立するとそれどころではない。多くのお友達(だと思っていた人たち)は、人間や人生に期待しない「生活中心主義」的な生き方が楽だし"正解"だとおっしゃるので、孤立の確認作業も捗ってしかたない。

何度も言うけれど、こんな気持ちになってしまう自分のことを憎んでいる。そしてその気持ちを許せないこと自体がうつ病の病巣の正体なのだと思う。わかったところで、理解していることと体感していることは全くの別物なのだけれど。「『正義を許せない』という正義」という入れ子構造はどうやってほぐしていくことができるのだろうか。正義の劇薬性はそれで理解しているつもりだが、それだけでは正義のない世界こそ正しいという正義排他主義とでもいえる思想になってしまう。正義のない世界はどうなってしまうのだろうか。戦争はかなり少ないかもしれないが、逆に法律なんかもないだろう。やはり平和からは程遠いと思う。感覚的には「Aタイプの正義」と「Bタイプの正義」みたいな性質の違う正義がいくつか存在しているように見える。そして「生活中心主義」はその中でもあまり好ましくないタイプの正義に侵されているように直感的に感じているのだと思う。だから正義それ自体の存在意義について、あるいは正義の再定義付け作業について考えることが、自分にとっておそらく必要なのだろう。人間を、そして自分自身を許すために。

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