20240829.1356

恐ろしいことに気がついてしまったのです。昨日のことなので今は落ち着いて書けます。つくしを見てないんです。今年は一度もつくしを目にしていません。(ついでにふきのとうも。)
それ自体はどうでも良いことなのですが、恐ろしい気づきを伴いました。今年の私はつくし一つ見る余裕もない生活をしていたということです。つくしなんてものはどこにでもあるでしょう。窓の外、家の敷地、道端のあらゆる所。どこにでも生えてます。私の暮らしてきた風景につくしは確実にあったはずです。それなのに、一度たりともその存在を目撃していません。心に余裕がないのです。心に余裕がないと視野が狭くなり、目の焦点も大して動かなくなり、そうして放心していると、そこにあるあらゆるものが過ぎ去り失われていきます。余裕の無さというのは恐ろしいものです。

昨日は「落ち着かなくては」と必死に繰り返しました。失った心の余裕を取り戻さなければいけないと焦っていました。その焦りこそが余裕の無さそのものだと、今の私は論破したので今は落ち着いています。

「心の余裕」というものはとても偉大です。本気を出せば◯◯などということも可能かもしれないだとか、誰でもそういう経験や想像はあると思います。ですが、その本気とやらは「心の余裕」がなければまず無理かと思います。あくまで、私には無理で私はそうであるという話です。

昨日の私が気がついたつくしを見てないというのは「心の余裕」の無さから来る視野の狭さの話です。
では「心の余裕」があり視野が広い場合、どれだけの情報を見ることができるのかと言うと。例えば、初めて訪れた土地で迷子の観光客に的確な道案内をできたことがあります。道行く人の流れ、人々の持ち物、◯◯行きのバスが通った、遠くにある看板の情報等、その辺に情報は溢れているので「心の余裕」さえあれば対処できます。

このように例に挙げていますが、さすがに知らない土地で道案内というのは極端な例で、私にとっても最高記録のようなものです。これを読んだ方は、自分にはできないからと言ってネガティブにならないでください。大丈夫です、今の私にもできないので。あの当時の私は化け物か何かです。

ですが、かつて「心の余裕」がありすぎた私は今より広い視野を持っていて、今の私よりも有能だったということが事実です。

昨日のように度々「心の余裕」に着眼し、定期的に焦ったり不安がったりします。その度に思うのです。「今の私は老後を生きているのかもしれない」と。実際7歳あたりから感性や能力の変化が著しくなり、11歳あたりからは変化の方向がほぼほぼ劣化のように思えました。あのあたりから老後人生は始まっているのかもしれません。

今日も今日とて、仕事を休み平和に過ごしてます。体調は良くないですが、老後人生だと思うとかなりいい生活な気もします。

私は、今はどうにもなりません。どうにもならなくて良いのです。

無理のない生活とはまさにこれです。老人のようにヨボヨボと。案外悪くないですよ、平穏で。


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