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名刀「蜘蛛切」(くもきり)由来調べたらグロい記事になりました

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「蜘蛛切」(くもきり)


平安前期、すぐれた刀鍛冶を集めて作られた名刀「膝丸」。

試し切りとして罪人の首を斬ったところ、膝まで切断したことから膝丸と命名されます。

源頼光(みなもとのらいこう)らによって蜘蛛(くも)の妖怪を退治したことから「蜘蛛切」と改名されました。

その後「蜘蛛切」は源義経(みなもとのよしつね)等複数の持ち主の間を渡り歩き「吼丸」(ほえまる)→「薄緑」(うすみどり)→「兵庫鎖太刀」(ひょうごくさりたち)と名を変えていきます。

現在は京都の大覚寺に重要文化財として薄緑が収蔵されています。
文献にある薄緑その物か否かの真偽は分かりませんが、謎多き名刀として現存しているのです。

過去記事参照 ↓

「試し切り」 


「人を切った代物を献上するの?」と驚いたのがこの記事を書くきっかけであります。

そもそも刀とは殺人の道具です。その切れ味は実際に人を切ることでしか評価できないと認識されていたようであります。

よって将軍などに献上される刀はすべて試し切りが行われていました。

試し切りとは斬首刑となった罪人の遺体を実験台にして、刀剣の切れ味を検証することです。

30~50歳の骨組みのしっかりとした男性の、胸骨あたりの堅い部分を10回斬撃します。両断もしくは両断寸前まで切り込めた回数が、8~9回が「最上大業物」、7~8回なら「大業物」、5~7回なら「良業物」、3~4回なら「業物」と4段階に分けて評価されました。

また、台の上に複数の遺体を積み重ねて一太刀で何体まで切ることができるかによってもその切れ味を確認していました。

両断した遺体(胴)の数によって、「二ツ胴」、「三ツ胴」というように刀の銘が決まります。はしごから飛び降りて切った「七ツ胴」が最高記録のようです。

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試し切り外注化


罪人の斬首は本来奉行所の仕事でありました。

それなりの技術を必要とされる為、江戸時代中期以降は山田朝右衛門なる人物がアルバイト的に行うようになりました。死体を切り慣れているという理由から次第に試し切りも委託されるようになります。

高い技術を持った人はいつの時代にも評価されるのでしょう。委託先の朝右衛門は大いに儲かったそうであります。

試し切りの終焉?

死体の数が減ってくると同時に武士の時代も終焉を迎えます。物騒な試し切りの慣習は途絶えたかに見えました。

ところが人の業というものはいつの時代になっても変わらないのであります。

戦時中、日本軍の将校たちは自分の腰にぶら下げている軍刀の切れ味を試したくて仕方がありませんでした。記録では捕虜を使っての試し切りイベントに参加者が殺到したそうであります。酷い話であります。


編集後記(つぶやき)


歴史をひも解くのは楽しいことであります。先行きの見えない時代において「今」を知り「将来」を考えるために「過去」を知ることの大切さは否定のしようがありません。

しかしながらリサーチするほど人の業を知ることになるのも事実です。人間の業に気が重くなるのであります。
知る事の楽しさと苦しさの狭間で揺れ動いてしまうのであります。

 完


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