見出し画像

清掃ロマン小説「汚れたウエスで涙を拭けるか」第一話

清掃員の日常と夢を赤裸々に描く、長編の清掃ロマン小説を書き始めました。

※この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。

「汚れたウエスで涙を拭けるか」

第一話です。

前々日の夕方18時から働きづめで、深夜3時。
もう家を出てから34時間経っている。
クタクタの身体からは鼻につくきつい汗の匂いがする。
蟹工船でも流石にもう休ませてもらっている時間ではないだろうか。
殺すなら殺してくれ。

今が人生の底だ。
そう自分に言い聞かせるようにモップで剥離剤を床にべったりと塗りたくっていく。
剥離剤とは、清掃に使う薬剤で、何層何年にも渡って塗布されたワックスを溶かして床の地を出して汚れをリセットしてきれいにしていくのが剥離作業だ。
清掃作業の中でも特にハードなメニューで、身体にこたえる。
剥離剤を塗ってワックスが反応すると、溶けて床がツルツルに滑り出す。
しっかりグリップの効いたゴム長を履いているのに、足底に力を入れて踏ん張らないと滑ってしまう。
こればかりはどんなに熟練の職人でも一度や二度は滑って転んだことはあるし、重い機械や道具を運びながらではバランスを崩すことは必至。
滑って転ぶシーンは日常茶飯事なので、清掃現場では誰かが滑っても誰も笑いもしないし、大丈夫?などのリアクションすらしない。
一次汚水の剥離剤を回収して並々と入った18リットルバケツを抱えたまま、僕は滑って転んだ。
セーフ。
思いっきり床に全身を打ちつけ、ユニフォームは剥離剤まみれになったがバケツの剥離汚水を一滴もこぼすことはなく、必死に抱えることが出来て、ホッとした。
ホッとした瞬間我に帰り、どこがセーフだと呟いていた。

その一部始終を見ていたであろう社員の大島さんが声をかけてきた。
「七瀬、休憩入るよ」
案の定、部下のアルバイトが大層に滑って転んだというのにリアクションなしだ。
「怪我してないか?」くらい言えないものか。
いや、ここは清掃会社。
そんな一銭にもならない会話は誰もしない。

道具置き場に置いてあったウエスで頬についた剥離剤を拭こうとしたら、大島さんに腕を掴まれた。
「七瀬、きれいなウエス残り少ないからこのウエス使って」
大島さんは剥離剤を何度も拭き取ったであろうベチョベチョのウエスを渡してきた。
僕は無言で受け取り、大島さんには見えない位置でベチョベチョウエスをバケツに捨てた。
こんなウエスで顔を拭いても顔の剥離剤が増えるだけだ。

ビルの休憩室にはベテランアルバイトの高畑さんと社員の小林さんがいて、すでにタバコを吸っていた。
僕の顔の汚れを見て高畑さんは、「塗り込み終わった?」と聞いてきた。
この人もか。
転んだの?とか聞かないのか。
でも僕も「塗り込み終わりました。休憩明けにはポリッシャー回せると思います。」とだけ答えて、その後10分間4人は無言でタバコを吸い続けた。

僕がアルバイトしている清掃会社「国分寺美装」
日給9000円でもう5年ほど勤務している。
小さな清掃会社には昼夜の概念、法定休日の概念がない。
365日24時間現場はあるし、慢性的に人手が足らないので、シフトの希望など聞いてもらえない。
昼勤夜勤昼勤という連続シフトも当たり前だ。
国分寺市には働き方改革という法案がまだ施行されていないのだろうと自分を納得させている。
もちろん、昼勤夜勤で給与は別々なので今日の場合は日給18000円ということになる。
毎月の月給も30万超えるし、何の資格も学歴もない30代独身男が東京で暮らしていくには充分過ぎるくらいはある。
お金の面では不満はないのだが、とにかく休みがないのだ。
昼勤夜勤で終わる日はまだいい。
朝8時頃、通勤ラッシュの中を帰宅するのはしんどいが、そこから夕方17時頃までは寝れる。
これが休みみたいなものだ。
昼勤夜勤昼勤とトリプルシフトになると、もう思考回路がストップして殺してほしいとさえ思ってしまう。
そんな日は19時頃に帰宅して泥のように眠るが、また朝6時には起きて会社へ向かう。
疲れがまったく取れない。
まだ33歳で清掃業界では若い方の部類に入るからやっていけているが、社員の大島さんや小林さんはおそらく50歳をとうに過ぎている。
何歳まで出来る仕事なのだろうか。
そしておそらくと言うのは、2人の正式な年齢を知らないからだ。

この会社の人たちは世間話というか、プライベートの会話をしない。
とにかく全員、口数が少ない。
よその清掃会社では働いたことがないのでわからないが、うちではハイエースに4人乗って国分寺から出発。
今日の現場の埼玉の浦和までは約1時間半。
その間喋ったのは、途中で運転手の大島さんが「コンビニ寄ります」と言ったくらいのもの。
コンビニの駐車場に着いても誰も降りない。
コンビニ寄りますと言った大島さんさえ降りやしない。
「誰も何も買わないですか?」とも聞きやしない。
誰も降りない様子を見て、1分ほど駐車場に停まったハイエースはまた国道へと出た。
僕たちの関係性はこんな感じだ。
もう5年も一緒にいるのに、誰のこともよく知らない。
大島さんが離婚していて、小林さんは結婚していて男か女かもわからないが、年頃の子供がいる。
高畑さんはイケメンだ。尾上松也みたいな色っぽい顔をしている。まだおそらく30代で僕より少し年上っぽくて、昔はミュージシャンを目指していたことがあるらしいくらいの情報しかないが。
しかもこれも誰かが喫煙所でポツリポツリと話していたのを又聞きしただけなので本当かどうかもわからない。
僕たちはそんな関係性だ。

国分寺美装には他にも数名の社員と数名のベテランアルバイトがいるが、概ね皆無口。
僕もあまり他人に干渉されるのが好きではないからこの会社で続いているのかもしれないが、無口ということだけではなく、皆少しだけ異常に見えてしまう。
性格が悪いとかそういうことではなく、人間味がないのかもしれない。

年に数回だが、出張作業をすることがある。
東北や北陸まで行き、一週間から10日ほど大型現場に毎日入る仕事だ。
その間は会社がウィークリーマンションのワンルームを借りてくれてそこで寝泊まりするわけだが、ワンルームと言っても1人につきワンルームではない。
10畳ほど大きめのワンルームを一部屋借りて、そこに3人から4人で寝泊まりするのだ。
経費削減の為だろうとは思うが、この一週間はとにかく苦痛だ。
出張の場合の現場は夜間しか作業出来ないことが多いので、昼間は休みになる。
社員の大島さんや小林さんは、連続シフトにならないから「毎日出張がいいな」などと軽口を叩くこともあるが、何が良いというのだろうか。
ワンルームに4つレンタル布団を敷いて、4人のおじさんがほぼ無言で生活するのだ。
まだ働いていた方が心は楽かもしれない。
そして特に何が異常だと思うかと言うと、ここの人達は全員が全員、食に全く興味がない。
先月福岡に8日間出張した時も全員が毎日、マンション下のコンビニで食事を済ませていた。
福岡とは日本有数のグルメの街だと聞く。
ラーメンやうどん、もつ鍋や焼き鳥。
安価で美味しい名物が溢れているという認識の街。
だいたいせっかく地方に行ったら地元の名物など食べたくなるのが人間ではないのか。
全員が全食コンビニでパンを買って食べていた。
一度も外食をしないこの人たちを
心底恐ろしいと思った。

社員の大島さんは東京でも毎日パンを食べている。
4つ入りのクリームパンを毎朝コンビニで買ってから会社に来るのだ。
いつも昼に2つ食べる。
そして残りを夜に2つ食べている。
一度仕事終わりにコンビニに寄っているのを見かけたが、また4つ入りのクリームパンを買っていた。
家でも食べているようだ。
とても恐ろしい。
ただ大島さんは社員だが金欠だと聞いている。
会社からの借金や離婚の慰謝料の支払いが大変で手取りは数万円しかないという噂なので、仕方なしの食生活なのかもしれない。

元ミュージシャンという噂の高畑さんは色んなパンを食べる。
チョコやあん、いちごジャムのような甘いパンばかり。
惣菜パンのようなのを食べているところを見たことがない。
コンビニにはおにぎりや弁当もあるのに、色んな甘いパンと1リットル牛乳パックに入った梨のジュースばかり飲んでいる。
甘に甘。
恐ろしい。
確信があるわけではないが、この人は別にお金に困っていないはずだ。
30も後半になろうというのにこの食生活。異常だ。

一番年上であろう社員の小林さんはまだましかもしれない。
たまにではあるが、パンでない日は小さなお弁当箱を持参している。
小林さんは奥さんがいるらしいので愛妻弁当かなと思い覗いてみたら、弁当箱の半分は白いご飯、半分は輪切りにしたちくわを炒めたおかずしか入っていなかった。
毎回弁当の中身は同じだ。色合いや盛り付け方を見ても奥さんが作ったとは思えない。
自作弁当であろう。
はっきり言って汚らしい弁当だ。
僕がハイエースの中で弁当をチラチラ覗いているのに気づいたのだろう。
一度だけ「ちくわがあれば他に何もいらねえ」とボソリと言われたことがあるので、ドキッとして僕はすぐに窓の外に目をやった。
そんな小林さんも出張の時は、見たことのないキャッチャーミットくらい大きなパンを食べていた。
九州にしか売ってないパンだろうか?
ジャンボちぎりパン!砂糖・牛乳・バター不使用とパッケージに書いてあった。
恐ろしい。
味のしないあんな大きなパンが晩御飯なのは異常だ。

僕だけはマンションから外に出て、近所のとんこつラーメンなどを楽しんでいた。
あまり東京でとんこつラーメンを食べることもないが、東京では食べたことのない味。
これが本場のとんこつか。
意外とあっさりしていて、替え玉もしてスープも全部飲み干した。
こんなに美味しいものがあるのに皆はなぜ食べないんだろう?と思ったが、数の理論から言うと、清掃業界では僕の方が異常なのか?
地方に来たからと言って、普段の食生活を変更することが、仕事に悪影響を及ぼす可能性があるかもしれない。
イチローは毎朝カレーを食べて球場に向かっていたらしい。
同じ物を食べることで、ルーティンを変えず毎日同じプロの仕事が出来る。
皆は東京と同じクオリティの清掃を福岡でも達成するために、パンを食べているのか。
もしかしたら地方に浮かれている僕の方が異常であり、プロとして失格なのか。
だいたい仕事で福岡に来ているわけであり、物見遊山で来ているわけではないのだ。
という理論を成立させ、この時の僕は全てを飲み込むことにしたのだった。

午前5時。剥離した床に新たにワックスを2層塗布して、今夜の作業が終わった。夜勤昼勤夜勤のトリプルシフトがようやく終わった。
道具の後片付けをして、車に積み込みしている時が一番幸せを感じる。
重い機械を持ち上げてハイエースのトランクに載せる一番の力仕事なのだが、これで仕事が終わりだと思うとどんなに疲れていても力が漲ってくる。
大袈裟でなく「生きててよかった」と安心する瞬間でもある。

帰りは小林さんの運転で国分寺へ戻ることになった。
小林さんはガラス清掃の専門なので、あまり一緒に床の作業をすることはないが、すごい腕前の人だ。
高所作業の免許を持っていて、10階建てのビルの屋上からロープで吊られて、ビルの外側の窓を拭きあげながら、ビルの壁を上手に蹴ってどんどん下の階に降りてくる。
あのロープは誰かが屋上で操作しているわけではなく、自分1人で屋上の吊り元にロープを結んで自分で操作しながら降りてくるのだ。
僕は免許がないので、もちろん出来ないのだが、小林さんの作業を見ているだけで惚れ惚れする。
清掃業なんて、この国では最底辺みたいな職業だけど、仕事自体はそんなに嫌なことではない。
技術の高い作業員の仕事はカッコいい。
汚れている箇所がきれいになっていくのは気持ちがいいし、やり甲斐もある。
マナーとか意識に問題がある作業員が多いだけ。
予算がないから出鱈目な作業を強要する会社が多いだけ。
下請け孫請けには潤沢な資金が回らないように出来てる国のシステムが悪いだけ。
もう少し清掃業界を良くしてくれるような政治家がいたら一票入れるのにな。
そんなマニフェスト誰か出してんのかな。

「小林さんこの後、8時に府中だけど一回家帰るの?」
大島さんが聞いた。
「いや、帰る時間はないからハイエースでちょっと寝ますよ」
小林さんはこの後も現場があるのか。
夜勤昼勤夜勤からの昼勤、地獄の4回転クアドラブルシフトだ。
これは流石に僕もやったことがない。
寝ると言っても国分寺に到着するのは7時頃。寝れても15分か20分か。

「大丈夫?働き過ぎて倒れないでよ、人足らなくなるから」と大島さんが冗談なのか何なのか、怖いことを言う。
「まあ、今日はガラス職人が捕まらないから仕方ないよな。明日はシフト夜しか入ってないからもう一踏ん張りよ」と小林さん。
「七瀬くんもトリプル終わりだから、夕方までしっかり寝ときなよ」とハイエースを降りる時に優しい言葉をかけてくれた。
久しぶりに人に優しくされた気がする。パンばっかり食って人間味がないなんて嫌なこと考えて悪いことしたな。
剥離剤まみれの制服で、通勤ラッシュの駅に向かって行くというのに、何だか少し心地が良かった。

しかし、これが僕が小林さんの姿を見た最後のシーンになるとは。

人が死ぬ時というのはいつも突然だ。
小林さんが死んだ。


              つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?