死生感みたいなもの外側から。

生きていく中で何人かの大切な人が死んでしまったり
自分が他者の生き死に関わったり
立ち会ったりもした。
人は誰でも死ぬとはいえ
死にはひとつも同じ事はなかった。

その時その時で
自分の向き合い方と
死にゆく人の向き合い方と
自分でない他者の向き合い方
それぞれを持ちよって話せたり話せなかったりもする。
でも人が一人いなくなるんだからそれぞれどんな立場でもみんな真面目に考えているとは思う。

本当は人がいなくなるのは悲しい。
でも仕方ない。

どんな死に方を目の当たりにしても私は生きていて
死にゆく人に対しては
その人がどんな死に方をしても
そこが寿命だと思うしかない。
何があっても私は私を続けるしかなかったようにおもう。

父が死んだ時はいわゆる延命治療をした。
弟と私は大反対したのだけど母だけが諦められないとわたしたちに訴えていた。本当に沢山話をして家族でこの延命は私達残される者が父の死を受け入れる為にやらないと気が済まないんだったら(特に母が)もうやればいいじゃんと覚悟を決めて母に言った。弟も同意した。
生きていく者の我儘に付き合うのは父の性格上どんな事があっても俺は嬉しいよって言うんだろうと思ったのもあるし、なにより母こそが父の本質的な幸せを1番理解している気がした。

その上で自分は死にゆく人にもっと何かあったなって悔いを残しても良いと思っている。
そもそも死にゆく人にも生きている人にも悔いばかり残ってしまう。
死にゆく人は残された人が悔いを残す事を嘆いてばかりいたら嬉しいんだろうか。。。と思う。
私は少なくとも私が死んだらもっと何か出来たかもなんて思って貰わなくてもいい。

他者に対して他者の何かを汲んで邁進したとしてだいたいは見当違いだったりもする。
むしろ本質的な(例えば生き死に)大切な場面でこそ自分を邁進してもよい。のかもしれない。
自分の場合は身体があっても無くてもまだ「続く」だと設定する事が邁進するって事なのかもしれない。

例えば人が死んでも私はまだまだコミュニケーションを取れると信じていたりする。
出かける日に雨予報だったのに晴れになったとして
私は今でも父が晴れさせてくれたのかもなって思ったりする。
父の残した本を読んで父はこんな事に頓着してワクワクして生きていたのかと思う事も出来る。
身体が無くなってもまだまだやり直したり重ねたりできる。

生きている者はどこまでも死の外側で感じることをやればいい。
死んだ事ないんだから。
いなくなった他者に対しては後悔も安堵も全部味わうつもり。
これはそうするっていう自分の個人的な話。

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