ただいま。

帰ってきたーー!
今日は小学校3コマ授業して帰ってきて窯出しとかしよっかな。
思い出した事があって
こんな仕事をしていると例えば学校に行っていないお子さんの親御さんから個人的になぜか連絡があって子供を働かせてくれないだろうか?とかそういう相談を受けたりする事もある。少し前は近しい人が福祉施設を立ち上げて福祉の仕事に関わっていた事もあって陶芸を介して私が成せる場所を作っても良いのかなと考えた事もあるにはありました。
ここからは自分の個人的な話です。
私はどんな作品に感動するのかといつも考えてはいます。
なによりも自分にとってはそれが大問題の大関心で在るべきだとむしろ今は思っています。
子供の作品だからとか障害がある方の作品だからとかのある種の2Dルックでは自分は感動出来ません。
私はあるベクトルで成熟した作品にしか感動出来ません。
むしろ誰が作ってようが感動する作品には素直に感動してしまう。
何となく自分の性癖みたいなものがあるとしてわかってきたのは結局本質的に突きつけられる物質が複雑でないと感動出来ないんだろうなって事。
もっと言えばどんなに作る側が仕組みを意識的に作ったとしてもそれはちょっと浅はかではないかと自分が感じてしまう仕組みであれば全く感動出来ない捻くれ具合をどう言葉で言ったらいいのでしょうか。。。。
鑑賞者である自分の事もそれくらいにはとるに足りないし同時に面白がったり信頼したりしています。
少なくとも私は他者と話すよりも自分と多く話をしてしまっていてそれが人間嫌いという表現ならば本当にそうだし矛盾しているけれどそれでも他者を愛していたりします。
ただ自分という人間のただの感受性って良いもんだよなって(たとえ勘違いでも)芯から思ったり信頼していたりはします。
良くも悪くもそれ位は“自分”について考えているのだからそりゃ自分の心底感動出来る作品ってのもね。そりゃわかります。
好きとか嫌いとかでもなくただ感動がちゃんと在る作品を見たいし作りたいです。
それでね。
何となく感動出来ていないのに感動するべきという空気があったとして。。。。
それを続けていると鈍くなっちゃう。
鈍くなっちゃう事って自分の大切なところにも他者にも失礼な気が今はしています。
手加減しないで自分の態度で在るのが何処に対しても本当は誠実なのかもしれなくて。
誠実さを邁進するのならば個人的な感受性を無視する事なんてできないから誰に話さなくても良いからちゃんと自分ではわかっておきたいです。
平和を本当に邁進していくのと面倒くさいから平和な方向に舵を切るのとは違うという事に本当に恥ずかしながら最近気がつきました。
まぁでも平和主義はそうなので傷つけたり怒らせたりするならわざわざ言葉にする意義は自分にはやっぱり見出せないのだけれど。。。
うーん。
少なくとも自分の態度には覚悟をもってそこは譲らないぞってやっていきます。
そういう頑固さと潔癖さは自分の嫌な所でもあり本当は大切にしたい所でもあります。
うーん。
もう自分の気持ちに手加減なんてしたくないなって思っちゃっています。
例えばギリギリでも這いつくばってでも自分の思想で邁進してる人がいるとしたら、そんな人に言葉でなに言っても本質的にはきっと傷つけたりなんか出来ないんですよね。
この人を私は傷つけられねぇというのは信頼です。
強い者同士しかできないです。
そういった強さをぶつけられる安心出来る関係というのがあるかもねと思っています。
むしろ本当に自分が芸術でわかりあえたり話せたりできるなっていう人は自分がもし手加減したらバレるしその方がよっぽど傷つけちゃうと思っていたりもします。
わたしも切実な人からの言葉に傷ついたりしませんし。
あー。
常に常に他者とヒリヒリしたコミュニケーションを取りたい訳でもないんですけどね。
ただその人の事が好きでコミュニケーションをとっていたい人もいっぱいいるから一概には言えないですけれど。
あーーー!
お腹減ったな!

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