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卵の中にいる鳥

 クーベは生まれた時からずっと、卵の中で暮らしている。
 ほかの子たちが卵からかえっていった時も、クーベは卵の中にいて、じっと耳を澄ましていた。クーベの周りで次々に卵の割れる音がして、弾けるような声が世界を満たしていった。
 お母さんは時々出かけていき、帰ると子供たちの名前を呼んだ。みんなはお母さんに名前を呼ばれると、喜んでのどや羽を震わせた。子供たちの口に食事を運び終えると、お母さんは卵をおなかの下に抱き寄せ、クーベの名前を呼んだ。クーベはそれまでと同じように、じっと耳を傾けた。お母さんの声は優しく、クーベは黙ってその声を聞いているのが心地よかった。
 けれどもしだいに、お母さんがクーベを呼ぶことは少なくなっていった。言葉を覚え始めたほかの子たちと話をするのに、お母さんは一日中忙しかったからだ。みんなが疲れて寝静まった頃、お母さんは思い出したようにクーベの名前を呼んだ。クーベはその声を聞きながら、ようやく安心して、卵の中で眠るのだった。
 来る日も来る日も羽の羽ばたく音がして、いつしか周りにいた兄弟たちはみんないなくなった。最後に残った弟が飛び立つ少し前、強い雨が何日も降り続いた。雨粒がぼとぼと落ちて、巣穴の外の木や土が大きな音を立てた。お母さんが出かけている間、おとなしい弟はクーベのいる卵に身を寄せて震えていた。時折、まだ柔らかいくちばしが卵をトントンとつついたが、クーベはやはり黙っていた。
 お母さんは夜になると卵を抱き寄せたが、いつの間にか、卵をお腹の下に置くことができなくなっていた。卵は隣で眠る弟と同じくらいに大きくなっていたから。やがてその弟も飛び立ち、辺りはとても静かになった。お母さんは卵を温めるのをやめなかったけれど、もうクーベの名前を呼ばなかった。

 ある時人の声が聞こえて、クーベの体は不意に宙に浮いたようだった。誰かが卵を持ち上げたのだ。クーベは卵の中で身を固くし、息を止めた。その人は手の中でくるくると卵を回し、クーベはしばらくの間、卵と一緒に回転した。
 クーベを持ち上げた手は、そのまま卵を家に持って帰った。その人は家に帰ると、食卓の上の空っぽの果物かごに卵を入れ、誰かを呼びながら家の奥へと歩いていった。食卓のすぐそばのコンロの上で、温かいスープが湯気を立てていた。いっとき静かな時間が流れ、鳥たちの声が遠くに聞こえた。そこにお母さんや弟たちの声はないか、クーベは耳を澄ました。
 不意に、天井からサイレンのような赤ん坊の泣き声が鳴り響き、ばたばたと走る足音が降ってきた。やがて赤ん坊はみ、さっきの人と、もう一人誰か別の声が、何かせわしなく話す声が聞こえた。
 しばらくすると、足音が階段を下りて近づいてきた。その人はなべの下のコンロに火をつけると、果物かごの中で耳を澄ます卵を手に取った。それは柿一つほどの大きさだった。
「確かに大きいね」
 低く柔らかい声はそう言うと、卵を鍋のふちにぶつけた。
 卵は割れなかった。
 その人はもう一度、そしてさらに何度か、しだいに力を込めて卵を鍋のふちにぶつけた。何度ぶつけても卵は割れず、硬くつるりとしたからにはひび一つ入らなかった。その人は果物かごに卵を戻すと、温め始めたスープの火を消し、不満そうに息をらしながら階段を上がっていった。
 卵の中、クーベは目を見開いたまま、凍りついたように固まっていた。卵はクーベを守ったが、それは今までにない強い衝撃だった。
 すぐに人の声が聞こえ、話し声とともに足音が近づいてきた。今度は卵を巣穴から持ってきた人が、かごの中の卵を持ち上げた。その人も、卵を鍋のふちにぶつけた。首を傾げながら、何度も卵をぶつけた。何度ぶつけても卵は割れなかった。
 天井から再び赤ん坊の泣き声が降ってきて、低く柔らかい声は台所を去っていった。もう一人はそのまま台所に残り、どうにか卵を割ろうと、流し台や食卓の上に卵をぶつけ続けた。しかし、卵は割れなかった。駆け抜ける強い衝撃から逃れることができずに、クーベは卵の壁に体をくっつけたまま必死にこらえた。
 その人もしまいにはあきらめ、食卓の前の椅子に腰掛けた。二階からさっきの人が戻ってきて料理の続きを始め、二人はしばらく何か言い争っていた。卵は再び食卓の上の果物かごに置かれたが、その日の夕飯の前には食器棚の中にしまわれた。
 夜になって二人が寝静まった頃、クーベはようやく薄い呼吸をした。卵の置かれた棚は飾り棚になっていて、額に入れられた古い写真や、かつてお菓子の入っていた箱、ふだんは使われない色のついたグラスが並べられていた。食器棚の真ん中にあるその飾り棚から、クーベはその家の食卓や、台所を行き来する人たちを眺めて過ごした。もちろん卵の中から。クーベはいつも音だけを聞いていた。

 その家には、卵を持ってきた男と、最初に卵を鍋のふちにぶつけた女、それからあの張り裂けるように突然泣き出す赤ん坊がいた。男も女もとても年老いていた。
 時折遠くから人がやってきて、食事をしたり、食卓の前の椅子に腰掛けて話し込んだりした。何人もの人が訪れて、みんなで歌を歌い、大きな音を立てて騒ぐ夜もあった。人々は笑ったり怒ったりした。
 その家を訪れるのは、男の昔の仕事仲間や、二人の大きくなった子供たちだった。大きな子供たちは、自分たちの小さな子供を連れてこの家を訪ねた。小さな子供たちは赤ん坊よりもずっと大きく、赤ん坊が泣くと順に抱きかかえてあやした。
 赤ん坊はこの家に住む二人の子供ではないようだった。この家の二人は、時折訪れる彼らの子供たちと決まって言い争い、大きな子供たちは足早にこの家から立ち去った。
 食器棚の中の卵はすぐに忘れられていった。初めのうち、男はその家を訪れた人に卵の話をすることもあった。確かに巣の中にあったんだ。いい卵を仕入れたと思ったが、どうやっても割れない。親鳥は石を拾ってきて温めていたんだろうか? 話を聞かされた人が卵を手に取り、机の上にコンコン、と打ってみることもあったが、誰も本気で卵を割ってみようとは思わなかった。みんな、それは卵によく似た石だと言って、適当に話を切り上げた。卵によく似た石。その内側でクーベは息を潜めていた。
 赤ん坊は日を追うごとに大きくなり、誰かが抱きかかえていても、すぐに逃げ出して地べたをまわるようになった。立ち上がり、よたよた歩いたかと思うと、椅子や机の上によじ登って飛び跳ねた。赤ん坊はいつの間にか自分でドアを開け、庭を駆け回り、家に戻ると階段を駆け上がっていった。
 ある時彼は、食器棚の中の卵に手を伸ばした。彼は床を這い回っている時から、しきりに食器棚を見上げていた。今日、彼は食卓の前の椅子を棚に寄せると、椅子の上に立ち、卵を手に取った。卵は林檎りんご一つほどの大きさだった。彼は顔の前で卵を上下に振り、それから耳に当てた。もう一度上下に激しく振った時、手から卵が滑り落ちた。卵はころころと床を転がった。
 家の奥からこの家の女が出てきて、彼を椅子の上から降ろし、それから少し強い声でたしなめた。女は忙しそうに料理の仕度を始めた。台所の大きな窓から強い西日が差し込んで、卵の転がっている床まで届き、熱を与えてくれていた。
 料理が出来上がる頃、女は食器棚から皿を取り出して並べ、残った食材を片付け始めた。その途中、食卓の横に転がっていた卵につまづいて転んだ。床に大きく尻餅をついた。女は片手で自分の腰を押さえ、もう一方の手でお尻の横に転がっている卵を拾うと、すぐさま腕を振り上げ、卵を放り投げようとした。しかしその腕を下ろし、じっと、それを見つめた。
 その時、流し台の横のドアが開かれ、誰かが戸口に立った。開かれたドアから夕日が降り注いで、台所を一層暖かくした。けれども戸口に立ったその人は、とても冷たい空気を運んできた。その人は女の方を一瞥いちべつすると、何も言わずに家の中に入り、階段を上って二階へ行った。
 すぐに子供の張り裂けるような泣き声が天井から降ってきた。女は台所の床から立ち上がることができないでいた。暴れる子供を抱えながら足音が階段を下りてきた時、ようやく家の奥からこの家の男が現れ、その人を呼び止めた。しかしその人は振り向きもせずに出ていこうとするので、男はその人の肩をつかみ、子供は一層暴れて大声で泣いた。いくつもの足音が台所の床の上に鳴った。
 不意に、とても嫌な音がした。それは、今までクーベが聞いた中で最も嫌な音だった。クーベの体は宙に浮いていた。どさりと崩れ落ちる音がして、台所は静まり返った。夕日は潮が引くように消えていった。熱はみるみる夜に奪われていった。

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