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「発言すると引かれる」について


この季節、「卒業してもみんな友だち」というセリフや歌詞を耳にするたび「えっ、それ本気で思ってる?」とずっと思ってきました。


こちらで語ったように、正式に検査をしたわけではないのでわたしが「洞察系HSP」と名乗っているのはあくまで自称です、というのが前提です。

さて、「発言すると引かれる」について。


本人的には空気を読んでそういう発言をしているんですが、わたしを知らない人には、なにも考えてない、短絡的だ、と思われてしまうことも多いようです。たしかに、わたしがアタマの中で考えているコトや量なんて人にはわからない。そして自分ではめっちゃ考えているつもりでも、わたしだって人の考えていることやその量、方向性はわからない。わたし以外の人は、わたしよりもはるかに膨大な事象と量と方向性を考えているのかもしれず、ゆえにわたしは「もっと考えろ」「短絡的だ」と非難されるのかもしれません。


他人の考えている量や方向性の多さはわからないけれど、わたしの発言や行動は一応は自分なりに、できるだけたくさんの量と方向性で考えて出した結果。衝動ではなく、一応、熟慮しております。


一例をあげますと、小学校の保護者の委員会でベルマーク集めについて話し合ったときのこと。集まったベルマークを集計するのがその委員会の役目のひとつで、そのやりかたは、昼間に何十人もの委員が集まり、会社名の書かれた箱にベルマークを分別していくというもの。手に手に切り取られたベルマークを持ち、これは○○ドリンク会社のやつだからあの箱、これは××お菓子メーカーのやつだからあの箱、みたいにグルグルするわけです。箱に入れ終わったら、メーカーごとにベルマークを台紙に張る作業。その集計方法を聞いた瞬間「げっ、やりたくない」と思いました。


さらに、そこまでしてベルマークからもらえるモノが、まったく労働力に見合っていませんでした。何十人ものオトナがそのために何時間も割いて、人によっては仕事を休んで、やった結果もらえるものがそれかーい、みたいな。そんなコスパの悪いことはやりたくない。わたしには、知らない人たちにまじって何時間も過ごすこともイヤすぎる。でもきっとそのコスパの悪さは誰も言い出せないにちがいない。だったらわたしが言い出しっぺになって責任を負おう。ほかの人はわたしに賛同するだけだからそれならカンタンでしょ。よし、ここでわたしが勇気を示さねば。みんなのためにも。そして、意を決して、挙手。


「あの・・・コドモに集計もやらせればいいのでは?」

あーあ、言っちゃった、言っちゃったよーーーー。でもわたしが言い出したことに賛成するだけなら、みんなできるよね。



何十人もいる教室が静まり返りました。



・・・え?誰も賛同しないの??・・・なんで?・・・言い出しっぺをやってあげている(本人はそのつもり)のに?そこに乗っかるだけでいいのに?


すると司会の人が「・・・じゃあ多数決しましょうか」と言ってくれましたが、やっぱり誰も賛同の挙手はしてくれません。結局今まで通り、オトナがやることになりました。


そうか。やりたいのか。やりたいのかみんな、この作業を。昼間から仕事休んだりして時間割いて大のオトナが集まって、ベルマーク片手に箱のあいだをグルグルまわって、そんであれしきのモノをもらいたいのか。どんだけコスパが悪いんだ。なんなの?愛情?コドモにはさせられません的な?それともオトナじゃないとこの作業はちゃんとできないからとか?いやいやこれくらいのことなら小学生も高学年になったらできるでしょ。この一連の作業はコドモにやらせたほうが、集めたベルマークがこうしてコレになりました、という経緯がわかってコドモのためになるのに?なんであれしきのモノのために、大のオトナが何十人も時間を割かねばならんのか?しかも時給も出ない。ほんとなんなの?「愛情があるから無給でも時間を割いてもこれくらい苦にならずにできちゃうんです」ってことなの?わたしには理解できない。うう・・・


「単に自分がやりたくないから理屈こねてるだけでしょ」「めんどうだからコドモにやらせたいんでしょ」とかも言われるんですが、それの何が悪いのか、それもわかりません。手や時間をかけることが愛情であると信じて止まない「ラクをしてはいけない教」か、コスパがどうのより「今まで通りよくね?教」の信者もまだまだ多いのかもです。


そんな感じで、一応、一応、一応あれこれ考えて、発言をしています。でも公の場なら静まり返り、個人なら苦笑いされてしまう。なぜでしょうか。ああ、ほんとうに、よくわからない。



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