上手い文章は尊敬するし羨ましいし妬ましい

名だたる文豪たちの著作を思い出す度に、私は
「文章が書ける人間は皆死んでしまえばいい」
と考えてしまう。

随分と物騒な言葉だが、私はそのとき実際に手を強く握り、しばらく跡が残るほど妬ましく、悔しく思うのだ。
しかし、憎いとは微塵も思わない。

ただ、自分の文章というものが如何に陳腐で凡庸なものなのかを知らされた記憶が思い出される。

最後に彼らの作品を読んだのが数ヶ月前なことを考えると、私はありもしない世界の終わりを探している人のように、理想を延々と自分の前に置き続けているだけなのかもしれない。
しかし、記憶の中の著作に私の技量が決して届いてはいないことは、私の中では事実なのだ。

もちろん、作品を作り、完成させ、発表することによって、喜んでくれる人がいることはとても嬉しく、彼らの評価のためにも私は自身の作品に自信を持つべきなのだろう。
というより、私自身良い作品を作れていると思ってはいるのだが、もっと良いものを作れるはずだという足りない気持ちばかりが先行しているのだ。

多くの本を読んでいる。多くの本を己の糧としている。

型破りとは、型を理解した者しか破れない。理解してない者が行えば型外れになってしまう。これを言ったのは、どこの伝統芸の人だったか。

文豪を超えるためには彼らから学ばなければならないとは、嫉妬に駆られながら学べと私に言っているようなものであり、心苦しいことなのは言わずとも分かることであろう。

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