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せんなきこと

 小学校は、学園から通った。
 父母とは月に二日だけ会えた。四十八時間の親子の時間は僕にとって特別だった。二人の元に帰るたびに「明日には学園に帰らなければならない」という時間制限を意識したため、喜びによる興奮の裏に、いつも物悲しい気持ちがあった。
 年に十二回、否応なしに、とある疑問と向き合う。すなわち
「どうしてお母さんは僕を、また学園に戻すのだろう」

 ここ最近は会社から帰ってきて夕飯を食べた後、妻と「ぼくらの」というアニメを見ている。主人公の少年少女が、地球を守る戦いに巻き込まれる00年代後半のアニメだ。彼らの操縦する超文明兵器ジアースが、操縦者の命と引き換えに動く(!)という恐怖設定が物語中盤で明かされ、少年少女たちの活躍シーンはいつも、死で終わる。

 操縦している少年少女は戦いの後死ぬと知っている。それゆえ戦闘シーンは自然と、何を守って闘うかという心理描写と、戦闘描写が交互におとずれる。

 僕はアニメ史を世相とリンクさせてくれる山田玲司のヤングサンデーという番組を見てるので、アニメ史のことは全て知っている。「ぼくらの」は、まどかマギカに先駆けて放映されていた憂鬱展開なアニメで、「終わらない日常」をテーマにした00年代前半のアニメトレンドに引導を渡した作品、と山田先生は言う(かもしれない)。

 冗談は置いておいても、リーマンショックの翌年である、という背景を考えると、アニメ視聴者層の心境を反映したかのような作品である。

 死を意識しながら両親や家族と過ごしている少女のシーンを視聴しながら、自らの少年時代を思い出した。
 僕も「父母と別れる瞬間までの過ごし方」をいつも考えていた。

 隣にいる妻と、いつか別れる時がくると考えてみた。
 そうだ。それはいずれはやってくる。

 とはいえ、それは考えても詮無いことだ。

 明日やあさってに、愛する人と離れ離れになるかもしれないという心配を、わざわざしないということが大切だ。

 別れを意識して身構え、絶え間ない消耗感の中にある時間を過ごした身としては……同じ時間を安穏と暮らした方がヘルシーだと感じる。

 必要がなければ、いたずらに警戒しても仕方ない。

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