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勉強の事と、それをひけらかすこと、または共有欲求

 僕が三十歳を過ぎた時、知識面において、自分を客観的に評価したことがあった。その結果、二十歳の時の自分とさして変わらないと自覚した。僕は政治の話が全然分からなかった。もしかしたら、多くの人がそうかもしれない。どうだろう。
 僕が就職したのは二十五歳の時で、社会人を五年以上経ても「全然分からない」ものなのだと気づきショックだった。

 教育の行き届かない会社に勤めたのだと思うかもしれない。僕が務めている会社の名誉を守るために説明すると、僕には先輩がいなかった。その会社では社員第一号として雇われたのが僕で、当時から僕は現場を回すので精一杯。

 社長と話す機会はあまりなかった。つまり一般的な社会人が経験する(と、個人的には想像する)ような「先輩の政治観に触れる」といった機会は皆無だった。
 政治観になんのバイアスもかかっていない状態だった。それはそれで結構なことかもしれないが、三十超えて自民党と民主党の政治背景すら全然分からないのはまずい、と僕は思った。
 そういったことは自然に分かるようになると信じていたのに。
 だから僕は勉強することにした。勉強した内容を披露するのはまたの機会に譲るとして、勉強をしてこなかった僕には、動画がマッチした。活字を読むのが苦手な僕でも、興味のある分野について説明している動画は楽しい。ある程度知識がついた時、動画内で「おすすめの書」を紹介され読書を始めた。

 
 読書そのものが良いことか、悪いことか僕には分からない。不慣れであっても毎日こつこつ読んでいると、自分が頭でっかちになっていくのを感じる。
 重くなった頭を少しでも軽くしようと、会社で後輩をつかまえて知識を吐き出す日々だ。ことによったら「先輩、話がながくなったし、付け焼刃の知識をひけらかしてくるようになってうざい」と思われていてもおかしくない。

 沈黙を選べるようになれば、落ち着いた存在に見えるようになるのかもしれない。
 それにどれほどの意味があるのか、想像できないが。


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