メタフィクション・ゲームと物語実在論
物語世界は実在する。
この主張が奇抜に過ぎるのならば、まず素粒子と歴史の話から始めよう。
素粒子の、例えばクォークが実在することを疑う人間は少ないのではないだろうか。しかし同時に、自分の行った実験や計算でクォークの実在を確信した、と言い切れる人間も非常に少ないはずだ。つまりその実在とは、普段体験する自然現象から形成された科学への信頼、教育やメディアから形成された科学者の権威に基づき、語られることで我々は信じることができる。
それは歴史上の人物・出来事でも同じことが言える。例えばソクラテスは自らの著作を持たず、プラトンなどの著作を通じて思想や人物像を知るしかない。そして我々は更に直接それを読むのではなく、やはり権威と共に語られるそれら著作の内容を信じるのである。
こうして直接経験に基づく実在がいかに狭い範囲でしか成立しないかということに気づくと、フィクションとノンフィクションには何ら明確な区別はないことが明らかになる。
「ノンフィクション」と標榜された物語があったとして、それを実証するには膨大な労力を要する。大抵は「この物語はフィクションです」といったメタ的言明を信じるか否かでしかなく、物語そのものから我々が得られるのはどの程度リアリティを感じるか、という印象の強度だけだ。
ならば我々がそのリアリティを信じることは、何者にも妨げられはしない。キャラクターを推す、そのキャラクターの為に生きる、ということが現実となった我々にとって「物語世界は実在する」ことは、最早前提として良いほどのリアリティを持っている。
(これは鑑賞態度の根本的な変革でもある、「壁になりたい」ような態度は最早成立さえ許されないからだ。)
生活実践のレベルにおいて、物語とはもう虚構ではないのだ。
❖
虚構ではないという事態はメタフィクションにとって重大である。
物語が虚構に留まる限り、物語によって名指されるメタ的存在は「本物」になることがない。物語がいかに読者を名指ししても、それは物語の側からは仮構された存在でしかない。しかし物語を信じるならば、そこに名指される読者は真に我々のことを指すと理解できる。この地平において、物語体験とは現実の体験と完全に連続している。
しかしながら物語世界は、ある程度の世界設定を持つ作品では我々の現実世界と同一視できない。従って物語の体験はやはり「第四の壁」を隔てているのである。今この時代のメタフィクションは、虚構性ではなく「遠さ」の問題へと焦点を移している。
(以下各ゲームのネタバレを含む。)
『MOTHER2』(1994)は世代的にはかなり先行しているが、こうしたメタフィクション受容と非常に相性が良い。
このゲームの最終戦における「いのる」は時空を超えてそれまでに出会った様々なキャラクターと共鳴し、最早誰の名前も思いつかなくなって尚諦めない懸命な祈りが、遂にプレイヤーへと通じる。
最終戦の過去世界→物語の通常世界→我々の世界、という構図は上述の「遠さ」として自然に理解できるだろう。
とは言え特にプレイヤーの操作がある訳ではなく、「いのりつづけた」と叙述されるだけなので能動的体験にはなっていない。仮構された存在という面がどうしても拭うことができない。
『moon』(1997)の重要性はその点で一層明確になる。
そもそもゲームデザインなど担当した木村祥朗氏も言っているが、「アンチRPG」という表現はやや誤解を生んでいる様子がある。(ゲーム・オブ・ザ・ラウンド 第2回 「moon」復刻とメタフィクション・ゲームの系譜参照。YouTubeで一部無料)「アンチRPG」であるからには冒頭で繰り広げられるような「勇者」の残虐性の弾圧が徹底されるのだろう、という期待を持つプレイヤーがいるようなのだ。
しかし実際はそうではない。月世界において奇盤=基盤=プログラムによる運命が曝露され、少年≒プレイヤーはゲームをコンティニューするか否かを問われる。これは「アンチRPG」を「誰がキャラクターを殺すのか?」と解釈すれば、極めて自然な展開だろう。勇者以前にゲームがあり、ゲーム以前にプレイヤーがいる。残虐性の根源はプレイヤーに他ならない。
それを止めるには結局はゲームを止めるしかないのだ。かくしてエンディングで『moon』は発売中止となる。自然「アンチRPG」は「アンチゲーム」へ帰結する。(しかしこれもまたプログラムされている訳で…極論すればプレイヤーは「CONTINUE?」で電源を永久に切らなければならない!)
どちらかといえば発売当時のキャッチコピー「もう勇者しない」の方が本質的に思われる。「勇者である」のはキャラクターだが、「勇者する」のはプレイヤーだからだ。ゲームをプレイし、選択するのは少年である以上に疑いようもなくプレイヤー自身である。このシンクロが「遠さ」を克服する。
『moon』がプレイヤーを名指すことはしないが、しかし行為によって、特に「CONTINUE?」への選択によって物語体験はプレイヤー自身の体験となる。
『UNDERTALE』(2015)はこうして見ると正しく究極形だ。
この作品は間違いなくプレイヤー自身を名指すし、またメタ物語的な存在たるFloweyは一つの重大な選択を求める。いわゆる「Pルート」を終えた後、Floweyは虚空に現れて言う、プレイヤーにはやはり全てをリセットする力があるが、それでもどうかそのままにして欲しい(「Just let them go.」)と。ここでゲームプレイを止めることで、プレイヤーは遂に『moon』的な問題意識に殉じることができる。(私はそうした、Floweyの気持ちを本当に信じたから。)
しかし同時に『UNDERTALE』は絶えずプレイヤーを誘惑する――豊かな物語と演出、挑戦的な難易度、傑出したBGM。ゲーマーの性への悪魔的囁きによって再び「勇者」の地平へと叩き落そうとするのだ。
またFloweyはセーブ・ロードを掌握することで、物語世界のパラレルな可能性を否定する。この方法論は『Doki Doki Literature Club!』(2017)が有名だが、『君と彼女と彼女の恋。』(2013)というよく似た先行例や東浩紀氏の言う「メタ美少女ゲーム」の存在(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』)を考えると、美少女ゲームの正統な問題意識に属すると言える。ゲーム体験を本物にする為には、リセットは常に邪魔な存在なのだ。
プレイヤー自身の選択、それも(周回プレイヤーでもなければ)一回きりの選択。これをプレイし続ける方向へと誘っている点で、『UNDERTALE』は「アンチゲーム」ではなく真っ当な「ゲーム」だ。そしてゲームであることを呪う。
倫理性が自己否定へ帰着して立ち止まる『moon』と呪いを孕みながら進み続ける『UNDERTALE』の、どちらが幸福だろうか。
キャラクターを愛しながらも私はやはり、生み出すことを否定したくはない。人類が正にそのエゴを許容してきたからこそ、今まで我々は存続しているのではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?