現代アートの分からなさ

四角い形状、真っ白い壁面、端から端までのガラス張り。
こうした建築には「現代的」という印象を受けるかもしれないが、建築家ル・コルビュジエが「近代建築の五原則」としてその要点を提示したのは実に1927年、日本では昭和2年のことだった。

こうした感覚のずれは建築に限らず、現代アートにも恐らく共通している。
パブロ・ピカソがキュビズムの原点となる《アヴィニョンの娘たち》を発表したのは1907年だった。ピカソは歴史としてあまりにも有名な為「現代」という感じは薄いが、1910年代にはピート・モンドリアンがキュビズムに影響を受け「コンポジション」と題する様々な作品を発表するようになる。その単純なレイアウトや原色遣いは既に「現代アート」のイメージに近いだろう。

19世紀に写真術の発明という衝撃を受けてから、芸術には思想が付き物となった。
マルセル・デュシャンのレディメイド、ジャクソン・ポロックのアクションペインティングなどは特に背景を知らなければ理解が難しい。
しかしキュビズム、抽象画、それにドナルド・ジャッドのようなミニマルアート、これらの作品から当時の人々が受けた視覚的印象は、かなり我々とは隔たっていたように思えてならない。

例えばキュビズムは「全てをキューブに還元する」という評の通り、現実のものの形を単純図形に還元する面がある。
だがこれは今日の我々が日頃目にするもの、3DCGにとって極めて基本的な考えだ。三角形や四角形によってあらゆるものをモデリングする、そのキュビズム的性質は特にワイヤーフレーム表示で明確になるが、いわゆるローポリの角張りでも目につくだろう。植物がペラペラの板で騙し絵のようになっていることもオープンワールドのゲームではよく見られる。
デジタル世界においては単純な形状こそが基本であり、現実とはディテールの在り方が逆転している。

色彩についても恐らく同じことが言える。
現代の我々にとって原色を目にする機会が多いのは、プラスチックや電子機器のディスプレイの影響が大きいのではないだろうか。ディスプレイは言うまでもなく、プラスチックも大量生産が始まるのは1950年代以降だ。
するとモンドリアンの時代は勿論、ジャッドでさえ当時の人々にとってその色彩が持つインパクトは我々とは段違いだったのではないか。

そして今一つ個人的に印象の強い事例があり、バーネット・ニューマンの抽象画についてである。
ニューマンは塗り潰したキャンバスへ「ジップ」と呼ばれる垂直な線を描く作品を多く発した。そのタッチは無機質ではなく人の手を感じるもので、どこか強烈な情念を滲ませている。

ただ私にとってジップにはどこか既視感があり、それは『新世紀エヴァンゲリオン』(新劇場版ではなくTV版)終盤の精神世界的な演出だった。モノクロの画面に主人公の独白が縦線で、裏の人格のようなものが喋るときは横線で、というように、内面の相剋が非常にシンプルで対比的に描かれるのだ。
これが実際ニューマンの引用である可能性は低いとは思うが、発想としてはかなり近い地平にいるように思われる。

我々の日常体験は変化し続けているし、現代アートの探求する表現は様々なカルチャーへと取り込まれてゆく。アンディ・ウォーホルのように商業との接続を積極的に広げたアーティストもいる。それを経験してきた我々にとっての「現代アートの分からなさ」は、ある程度必然であると擁護しても良いのではないか。
現代アートの文脈性というものは、そのコンセプトの理解という点が大きいのは確かではある。しかし時代の隔たりを考えれば考えるほどに、非常に根本的で感覚的な印象、見え方の違いも想像せずにはいられなくなる。

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