ドストエフスキー「罪と罰」

ドストエフスキーは偉大である。もともとえらい人だとは聞いていたが、こうもえらい人だとは思わなかった。ラスコリーニコフの主張、つまり人間は凡人と非凡人にわかれ、非凡人は社会の進展のために必要な悪は犯すべきだということ、100個の善のためなら1個の悪は犯してよいという主張は、なかなか論理的に強い主張のようだ。青年なら自分は非凡人だ、なる考えはうっすらでも持ったことがあるのではないか。自分はある。うぬぼれというか、自負心というか、そういったものがとてもラスコリーニコフと自分で重なるのであった。第6部まではラスコリーニコフ改心してんのか、ん?という感じだったけれどもエピローグで彼もヒューマニズムというか、人間愛というかに目覚め、読者はカタルシスを得ることになる。
Dr.コト―診療所的なヒューマニズムである。変な自意識のある三上が改心してコト―先生のようになるような構造と変わらないんではないか。しかしドストエフスキーは読者に熱中して読ませる。これはひとつは読者がラスコリーニコフ的な考えを少しでも持っているからではないか。三上は嫌な奴として客観的に読めるけれども、ラスコリーニコフはそうじゃない。俺は皆とちがう、非凡な才能をもってる、そんな思い違いを誰しも持ってる。

そんなラスコリーニコフ≒読者が聖なる娼婦であるソーニャに救済を求めるのである。聖なるマリア像のように、そこにはあたたかさがあり、母性がある。ソーニャに会いたい。

ともかく、この小説は読んだ後、周りの人に話しかけてみよう、悪いところこの人にあるけれど、愛そう、そんな気持ちにさせるんである。

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