なぜ看護師になろうと思ったのか

小さい頃から病院に行っていた日々

私の母は、看護師だ。とはいえ、家の中でも看護師というわけでもなく私が知っている母は母でしかない。看護師としての顔を見たことがあまりない。しかし、たまにはあった。それは母の残業に付き合うために、病棟に時々行くときだった。
辺境にある病院では一昔前まで、病棟の安全管理、情報管理はそこまで厳しくはなかった。そのため、年端もいかない子どもを預け先がない核家族であるということを承知の上で、病棟にいることを黙認していた部分もあるが、現在の管理体制ではそう言った例外は認められにくい風潮がある。
よって、小さい頃から地域にある小さい病院の小さい病棟に行き、看護師と話したりする機会があったのである。

看護師に対しての印象

看護師に対して、すごい良い印象を持っているかと言えば今と大差は無い。仕事に追われ、対応ができず、何か言いたそうな患者も無視しなければ終わらない仕事。といった印象は、最初から変わらない。そのため、普通の看護学生が思った看護師に対する印象とは乖離した、すこし現実的なものを見ていた。また、楽しそうとか面白そうとも思わなかった。

違う夢を追いかけていた幼少期

幼少期には、戦闘機のパイロットを目指していた。所謂、航空学生である。父が元航空自衛官であったことから、強い勧めを幼少期より受けていた。そのために何をするかも、かなり強いられていたと今となっては感じる。しかし、この夢を追いかける経験は、今となって趣味の一部となっていることは間違いない。

自分の得意なことがわかった思春期

自分は解析すること、読み解くこと、問題を理解し整理して解法を導くことが得意だと気づいた。その中で得意な教科が公民系だった。
社会学系の学部、学科に行きこの点を伸ばせるような学問を見つけることができれば良いと思っていた。

DVによって人を縛り上げる父

父はDVによって、私の進路を決めようとしていた。行ける高校のランクを決める時期では無いのに、高校のランクを勝手に決めたり、その後の進路はこうしろああしろととにかく口出しをしてきた。本当にしょうもない、クソくだらない人生を歩ませようとしていた。
実現可能性について論じるときに必要な観点が、全く足りていななかった。
そして私も中学生で無知であった。

その時、私は咄嗟に看護師になると言った。
私は、DVから逃げるために言った。暴力を振るわれたく無いから言った。母もそれを盾に庇ってくれた。

看護学校へ

看護学校には、小さい頃から看護師になりたかったという学生が多く、1年生の頃から劣等感を感じることも少なくなかった。
その中で、その劣等感を和らげるために勉強をした。病態について、治療について、薬について、看護について、決まったプロトコルは覚えるように努力した。しかし、勉強をする中でなぜ看護師になろうと思ったのか考えることが増えた。

現実と乖離した自分の適性

今、私は看護学校に通っている。しかし、本当は社会学が得意で、今でも時々古典派経済学者の本を読むことがある。
実習もある程度まで進み、看護に対しての面白さを感じる時もあったり悔しさを感じる時もある。その中で、得意な分野が看護に近い物ではない事によって、新しい価値を生み出す事に対して楽しさややりがいを感じる時がある。
小見出しでは、乖離していると言ったが本当は乖離しておらず、親和しようとしているのかもしれない。

終わりに

何を恨んでも、何を反省しても現実は変わらない。むしろ、地域活性化のためには異端児をそのコミュニティに組み込み新たな視点、価値観を入れる事も重要であるというのは現在では通説となりつつある。
看護の中で私は異端である。その異端を受け止め、看護の分野に昇華させる教員というのはすごい役割であると思う。
また、母も咄嗟に言った看護師になるというのに対して、フォローをしてくれている。そういう、夫婦のもとに生まれた子どもを最後まで見続けるのは責任を果たすという意味では当たり前なのかもしれない。しかし、ある意味では貴重な事なのかもしれない。

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