『for hazuki』前編

宮部葉月がトラックに轢かれた。
それは八月の終わり頃の夕暮れ時の事だった。幸い一命は取り留めたものの、それからもうすぐ二ヶ月となる十月中旬の今でも、昏睡状態で眠ったままでいる。

僕が彼女と出会ったのは、高校一年の三月の終業式の前日だった。放課後のグラウンドからは運動部の掛け声やらが聞こえてきていて、そしてそれとは対照的に、校舎の中はひどく閑散としていた。僕は何の気まぐれか、特に理由もなく無人の音楽室に行き、特に理由もなくピアノを弾いていた。ドビュッシーを弾いていたとか、ラヴェルを弾いていたとか、そんなことを言えれば格好も付いたものだけど。そんな大層なものではなく、何となく思いついたメロディを引き連ねていく。そんなことをしていた。僕には昔からピアノを習っていたとか、そんな経験は、あのドリルみたいなのがいっぱい付いた掃除機が残す塵ほどにも無いから、本当に、ただ何となく弾いているだけだ。
誰もいない校舎に無機質なピアノの音が響く。多分音自体に品はない。こんな事をしていて、はたして何になるのかとも思うが、きっとボケ防止の指体操くらいにはなるだろう。若い内からでも、ボケる人はボケるらしいし。
閑話休題。
「ちょっとあなた、何やってるの」
声がした。ピアノを弾いたまま返答すればいいかとも思ったが、わずかに怒気を孕んでいそうな声色だったので、仕方なく、くわばらくわばらと、ピアノを弾く手を止めて声のする方を見た。きっちりと正しい着方をした制服、背中までかかる長い髪、凛とした表情。何と言うか、「厳しめの委員長」という表現にぴったり当てはまりそうな女子生徒が音楽室の入り口に立っている。ふと、以前どこかで彼女の顔を見たことがあったなと思った。そうだ、思い出した。確か彼女は風紀委員会の一員で、校則違反にとにかく厳しいと評判になっていたはずだ。今は確か委員長にまでなっていた気がする。出世と言うよりかは押し付けだろうけど。あ、そうそう。名前は宮部葉月だっけ。以前何かの名簿で見た気がするぞ。
「何って言われても。見ての通りにピアノを弾いてた。それだけ」
すると彼女はやれやれとでも言いたげな顔で、大量の幸せをばら撒くかのように溜息をついた。なんとも年寄りくさいというか、彼女くらいの年には似合わないため息だった。
「あのね、私が言いたいのはそういうことじゃないの。分かる?」
「まあ、何となくは」しれっと答える僕に、彼女はまた「はぁ」と幸せを無料散布する。そして続ける。
「あなた、音楽室の使用許可はもらってるの? 許可がないと使ってはいけないはずだけど」
「許可? ああ、もらってるよ。先生との口約束だけど」
「そう。なら下校時間は守りなさいね」
「ご忠告感謝します」
ふざけてみた。
彼女は本当にわかっているのかしらとでも言いたげにまた一つため息をついて音楽室を出ていった。そして音楽室を出て行く彼女の姿は、どことなく無理して地に足をつけているような、そんな脆さを感じた。彼女の付けていた腕章の艶やかなワインレッドが、なんとも古臭いなという感想とともに、僕の印象に強く残った。

それから春休みがあって、四月になった。だが、四月になってもほとんど変わる事なんて無い。僕と宮部のクラスは別。僕は気まぐれにピアノを弾きに音楽室に行く。そして校内をお掃除ロボットの如くパトロールする宮部の姿も時折見かける。しかしわざわざ話したりとかそんなことはせず、ただ僕は無人の音楽室でピアノを弾く。彼女はまるで自分の使命かのように校内を徘徊する。それだけだった。そんなある日のこと。宮部が音楽室に来ることがあったので、ついでに聞いてみた。
「君は、息が詰まりそうになることは無い?」
「はぁ、何言ってるの」
「いや、君はいつも気を張っているような感じがして。それが僕には到底理解出来ないから」
「……無いわ。それと、私がいつも気を張っているんじゃなくて、あなたが単に他の人に比べてふらふらしているだけよ」
酷い言い様だ。
彼女は「それじゃあ」と去ろうとする。僕はそれをまた、なんとなく呼び止めた。
「……何よ? 私はまだ見回りの途中なんだけど」
「風紀委員の見回りは今年度から無くなったはずだよ。それなのに何で君はそんなことをしているのか、それが気になって」
宮部が少しばつの悪そうな顔をしたかと思えば、すぐにそれは鬱陶しそうな顔に変わる。それから、「あなたにはどうでもいい話でしょ」とやっつけ気味に答えた。
「そうだね。どうでもいい」
僕はボッコちゃんの如く返す。
「君がどんなに校内を見回ったって、一人気を張り詰めていたって僕には全く関係ない。ただ何となく、聞いてみただけだよ」
「そう。無駄が多いわね」
「ああ、無駄かもね。でも、余分なものが多い程、色々と楽しくないかい?」
「いいえ全く」
宮部は食い気味にそう返した。即答だった。余計なものは入れない主義だった。でも、このやり取りで少しだけある予感が生まれた。
「君はさ、僕にとても似ているよ。そんな気がする」
すると宮部は鼻笑い混じりにこう言い返す。
「どこが? 全くと言っていいほど正反対じゃない」
「さあ、どこがだろうね。ただ何となく、そう感じた。それだけだよ。それより、見回りはしなくて大丈夫かい?」
すると宮部は大きなため息をつく。
「あなたが呼び止めたんじゃない。卑怯ね」
ああそうだとも。確かに僕は卑怯だ。自分の話したいことだけを話して、用が済んだら後はおさらばして逃げるのだから。
「あ、そうだった。いや、呼び止めて悪かったね」
「本当よ。全く」
宮部は「下校時間は守るように」とだけ言って、とうとう音楽室を出ていった。
それからも宮部は時折、音楽室に訪れたが、わざわざ話したりするような事態にはならなかった。彼女が言うことは二つ、「下校時間は守るように」と「鍵は最後ちゃんと返しておくように」だけ。いつも同じ調子で、同じ内容。そしてその時の彼女の目は、まるで敵国の兵士を見るような目で、最初こそはなんともむず痒い気分だったが、次第にそれにも慣れていった。頭痛薬を繰り返し使っているとなかなか効き目が無くなってくるのと感覚が似ていた。

それと、一つ驚いたことがある。僕は芸術科目の選択授業では音楽を取っているのだが、なんと宮部も選択は音楽だったのだ。僕はてっきり宮部は美術あたりを選択して、細々とやっている(美術を真剣に志す人には申し訳ない話だがこの学校での美術の授業のイメージはそうなのだ。そのため、もしも美術を志すのであれば、美術の授業を選択しないことを、精神衛生のためにお勧めしたい)とばかり思っていたので、非常に意外だった。因みに僕は、見かけによらずアクティブな人間なのだ。
音楽の授業は選択科目故に一クラス当たりの選択人数が少なく、隣のクラスとの合同授業になる。因みに宮部は隣のクラス。つまりは音楽だけは宮部と同じ授業を受けることになったのだ。
音楽というのは、その人の人間性を映し出すと聞く。だからなのだろうか。気色の悪い話だが、本当に、自分でもことごとく嫌悪感を抱くかもしれないというほどに気色悪い話だが、僕はあの(僕の中では)やたらに刺々しく頭の固い宮部が、どんな音楽を作るのか、それが気になって仕方がなかった。だから僕は音楽の授業において、宮部という人間を観察し続けた。無論、規制法に引っかからない範囲だ。すると気になっていたことの答えはすぐに分かることになった。宮部の音楽は酷くテンプレートだ。安定している。でも、つまらない。コンビニの鮭おにぎり(鮭おにぎり愛好家には申し訳ないが)の様な音楽だった。僕はそんなこと言える立場じゃないかもしれないが、むしろそんな僕でもそう感じる様な音楽だった。多少の頭の硬さは感じたが、刺々しさは感じなかった。どうせなら刺々しさくらいあってくれよと言いそうになったのだが、それを言うと僕が社会に串刺しにされそうなのでやめておいた。というのは少し出鱈目が過ぎただろうか。とにかく、僕は彼女がどうして音楽を選択したのか、今度はそれに疑問を感じてしまった。
「君はさ、どうして音楽を選択したの?」
「何よいきなり。また『ただ何となく』?」
「よく分かってるね」
すると宮部はさぞ呆れたかのようにため息をつく。
「別に何だっていいでしょう。あなたには関係のない話よ」
「いや、気になっちゃってさ」
「何で気になるのよ。気になる理由なんてどこにも無いじゃない」
「何でだろうなぁ。他の人については、そんな特別気になることなんて無いんだけど」
何だかストーカじみてるなと、心の中で嘲笑の意での鼻笑いが漏れた。
「そう。それならやめて。迷惑」
「……そっすか。了解っす」
それは至極当然の反応だったので、ずこずこと惨めに引き下がることにした。

それからはしばらく、僕と宮部が会話することはなかった。そもそも、会うこと自体が滅多と無いし、たまに僕が音楽室にいる時に、宮部が音楽室の前を通っても、特にお咎めを受けることも無かったのだ。僕は別にそれでよかったし、宮部もせいせいしただろう。だからこの話はここでおしまい……とはいかないのである。なかなか運命とは救いがたいものだ。
「……何であなたなのよ」
「さあ……僕にもさっぱり」
これも音楽の授業の話、授業内容は、男女ペアを組んでのデュエットだった。ペアはくじ引きで決めるのだが、皮肉にも僕と宮部がペアになったのである。きっとご都合主義の神様のせいだと、いるかいないか分からない曖昧なやつのせいにしておいた。
しかし僕も宮部も、デュエットの練習では互いにちゃんと意見を交換し合った。その間は宮部の僕に対する刺々しさは、大分緩和されていだ感じがする。そこで、僕はひょっとして、これこそが彼女の本来の姿なのかもしれないと思うようになった。今でこそ、あの刺々しい宮部がデフォルトになっているが、それ以前は、そうではなかったのかもしれない。
そんな風に思った数日後の帰り道、降りそうで降らない曇天の下、僕が下校している道中に、偶然にも宮部を見かけた。道の脇で何やらしゃがんでいる。何をしているのだろう。すると、僕は宮部の足元に何かうごめく物を発見した。よくよく見てみると、それは地べたに寝っ転がった黒猫だった。つまりは宮部は黒猫を撫でていたのである。
道に人影は僕と宮部の分しかない。すぐに気付かれるだろうなと思っていたが、以外にも気付かれることはなかった。もしもここで他に人がいたか、もしくは宮部に気付かれていたら、恐らくこんなことはしなかったのだろうけど、僕は物珍しさに惹かれて、猫を撫でる宮部のことをしばらく見続けていた。
僕が一番驚いたのは、宮部の表情の、その柔らかさだ。黒猫に向ける宮部の顔には、学校では見せない優しさのようなものが内在していた。そうか、あの宮部はこんな顔もするのか。そんな感想が頭の中を巡る。僕は改めて、人間の奥深さを思った。
「何なの。さっきから」
宮部が唐突に話し出す。あまりに唐突だったので、僕は一瞬、それが僕に向けられた言葉であることに気付かなかった。
「え、ああ、いや、猫が好きなのかなと思って」
「視姦って言葉知ってる?」
「うわあ、強烈」
今の一言で僕が声もかけずに宮部をずっと眺めていたことに対する不満と、鬱陶しいから関わらないでほしいという意思がとても正確に伝わった。
「物珍しかった?」
「……正直に言えば」
物珍しかったも何も、初めて見ました。
すると宮部はまたため息をつく。
「そういえば、宮部は猫が好きなのかい?」
「悪い?」
「いいや。全然」
「そう。それじゃあ」
宮部が不本意な会話を早々に切り上げ、この場を去ろうとする。
「あ、ちょっと」
「……何よ?」
僕の呼び止めに、心底鬱陶しそうに振り向く。
「さっきのこと、やっぱり不快に思ったんだったら、謝ろうと思って。ごめん」
本日二度目のため息が聞こえた。でもそこにあからさまな敵意は感じなかった。
「お人好しね」
宮部はそう言って、とうとう行ってしまった。黒猫が宮部に向かってなぁおと鳴く。宮部は振り返らない。
一人残された僕は、同じく一匹残された黒猫に目をやる。目があった。また、なぁと黒猫は鳴く。僕はゆっくりしゃがんで、黒猫に手を伸ばした。黒猫はその手をさらりと避けて、どこかに行ってしまった。さっきのは「ばーか」とでも僕に言いたかったのだろうか。あの猫からすればせっかく宮部に撫でてもらっていたのに、僕に邪魔されてしまったのだから、面白くないんだろうな。きっと。そして、僕も歩き出す。いくつかの道を曲がったりすると、もう前に宮部の姿はない。
その後、歩いている間、僕は宮部とあの黒猫のことを考えていた。あの黒猫は、どうも宮部に懐いていたみたいだが、宮部の飼い猫というわけではないだろう。すると、何があって、宮部はあの猫に懐かれたのだろう。
もしかすると、と、僕の中に一つの閃きがよぎる。猫や犬、獣というものは本能的に、色んなものを察せるらしい。人間で言うところの、第六感のようなものを持っていると聞いたことがある。すると宮部には、あの猫を惹きつけるものがあったのだろう。ふと、宮部の最後の様子を思い出す。僕のことをお人好しと称する時の彼女には、果たしていつものような敵意はあっただろうか? いや、あったのならとうに気づいていただろう。すると? あの時の宮部には僕に対する敵意はなかった? 都合が良すぎるだろうか。でも、もしも僕に敵意のような、どこかマイナスな感情があったのなら、きっとあの猫は宮部を呼び止めるように鳴いたりしないんじゃないだろうか。駄目だ。これも都合が良すぎる。どうも現実的じゃない。思考をめぐらす。どうしても、あの一連の出来事に違和感を感じてしまう。何かがいつもと違った。確かに違ったんだ。でも何が? 分からない。
そこでふと、僕の頭の中の思考を、随分と長い間、宮部というたった一人の人間が占領していることに気づいた。参ったな。無意識のうちに、僕は彼女に侵略されつつある。きっと彼女も無意識のうちなのだろうけれど。
何となく、笑えてきた。悪い気はしない。生きている気分だった。

それから数日後の事だ。いつもとは違って、昼休みの時に音楽室で取り留めもなく乱雑にピアノを弾いていると、久々に宮部と遭遇した。
「あなたいつもここにいるの?」
少しげんなりしたような口調だった。
「たまたまだよ」
「そう」とどうでも良さそうにあしらって、宮部は目的を告げる。
「佐々先生はいる?」
佐々先生とは、僕らの音楽の先生のことだ。確か風紀委員の顧問もしていた気がする。宮部はきっと何が委員会の書類でも提出に来たのだろう。
「いや、いないよ。多分職員室じゃないかな」
「そう」
そこで僕はやっと、宮部が普通じゃないことに気づいた。なんだかふらついている。足下もなかなかおぼつかない。よく見てみると、顔色も悪い。
「宮部、体調悪い?」
「いいえ全く。それに、もしそうだったとしてもあなたには関係ないでしょう」
なかなか食い気味に返される。そして宮部は音楽室を出ようとする。少しかちんと来た。だから少し言い返してやろうと思ったところで、宮部の体がぐらりと傾いた。
「おい!」
僕はとっさに立ち上がる。が、宮部は机に手をついて、何とか倒れずに済んだので、少し過大な演出になってしまった。それはともかく。
「宮部、保健室に行こう」
「だから、あなたには関係ないでしょう。何ともないわよ」
「気に入らない」
そうだ。気に入らない。
「君がもし、僕の立場だったらどうする? このまま放ってはおかないだろう?」
「何でそんなことを言えるのよ」
「君が僕に似ているから。君は人を傷つけてでも、人との関わりを避けようとしている。それが自分の首を締めていても、それでもなお、独りを保とうとしている」
僕は少しむきになっていた。大人気ないけれど、今回ばかりはそれでも良いだろう。
「でも、不器用で、結局そうは出来ない。懐いてきた野良猫がいたら、手を伸ばしてしまう」
僕は卑怯者だ。でも、今回ばかりはこれも許してもらおう。誰に?さぁ?
「僕は君の体調が悪いことを知ってしまった。知ってしまったんだ。それなのに放っておけるわけないだろう?」
宮部が黙った。これは嫌われちゃったかな。
「宮部、保健室に行こう」
「……ええ」
でも、宮部はむきにならずに大人しく僕についてきた。同年代の女性の方が男性に比べて精神年齢が高いという話は本当なのかもしれないな。

昼休みの保健室には誰もいなかった。本来ならば、当番になった生徒と、保険係の先生がいるはずなのだが、その姿もない。いやいやそれはないだろうと、心の中で文句を言いながら、僕は宮部にベッドで眠るよう促し、机の上に放っておいてある利用者記録カードを書き込む。体調不良の種類、貧血による立ちくらみ。体温、適当に三十六度七部と記録した。クラス、二〇六組。番号……何だったっけ?
「宮部、出席番号って何番?」
「……三十六番」
「はい。三十六番ね」
 番号、三十六番っと。
「随分と手馴れているのね」
 宮部がどこか嘲笑じみた鼻笑いを交えて言う。何とも失礼な響きだ。
「これでも、僕は保健委員長なんだ。仕事の一環だよ。仕事の一環」
「以外ね。あなたが保健委員だなんて、そんな、人のための仕事をするなんて」
「なし崩し的にね」
「それに委員長までも」
「あれ、委員長決めないと会議が先に進まないから、早く終わらせたかったんだよね。でも、君だって委員長だろう?」
「ええ、そうよ。なし崩し的にね」
「そんなものか」
「そんなものよ」
 どうやらそんなものらしい。
「とりあえず、今はもう寝なよ。次の授業はもう、出なくていいんだから」
「そうさせてもらうわ」
「それじゃあ」
 僕は宮部の入ったベッドの周りのカーテンを閉める。
「ねぇ」
カーテンが閉まり切った時、その仕切りの向こうから宮部の声がした。
「ん? どうした?」
「ありがとう」
「……おやおや、どういたしまして」
宮部に似つかわしくない一言に、僕はわずかにどぎまぎした。そして間もなく、保健室を静寂が包み込む。宮部はもう眠っただろうか。そんなことを机の横の椅子に腰かけ、机に肘をつき、その腕で頭を支えながらぼんやりと考える。先生が戻ってくる気配はない。当番の生徒は、これはもうサボりだろう。今度嫌味を言ってやろうか。
 ……まあ、そんなことはどうでもいいか。正直。
保健室に入り込む陽の光が、僕のことを無力化し、それに伴って、思考速度も著しく低下させた。だから何も考えることはせずに、ただぼうっとする。
 僕も、次の授業はふけることにした。

 チャイムの音で目が覚めた。どうやら僕も寝てしまっていたらしい。時計を見ると、丁度授業が終わった頃合いだった。結局、先生は戻ってこなかったらしい。そんなことってありあるだろうか。この間に生徒が急病で倒れたらどうする? まあ何もなかったし、何も言わないでおこう。
閑話休題。
さて、宮部は目が覚めただろうか。宮部がいる予定のベッドの前まで行って、カーテン越しに小さく呼びかける。
「宮部、調子はどう?」
第一に、宮部は起きているだろうか。もしかしたら、思いの外ぐっすりかもしれない。
「ええ。少し寝たら、さっきより大分良くなったわ」
起きていた。
「あなた、もしかして……」
「ああ、うたた寝しちゃってね。僕も体調が悪かったことにしておこう」
なにを言われるかは予想がついたから、言葉をかぶせて、机の上の利用カードに自分の情報を適当に書き込む。これで、僕はサボりではないことになった。かなりの職権乱用だが、先生が来ないから悪いのだ。
「はぁ」
宮部がため息をつく。
「それで、どうする? このままもう少し休む?」
「いえ、授業に戻るわ。あなたのようなサボりとは違うの」
「……オーケイ。そしたら利用報告用紙を書くから待ってて」
随分な言いようだなと思いながらも、事実なので何も言わない。取り敢えず、自分と宮部の分の利用報告用紙を引き出しから取り出す。自分の行動のスムーズさに驚いた。普段は仕事でもこんなことしないんだけどな。これからはサボりのエキスパートと名乗ってもいいかもしれない。……馬鹿げた称号だな。
必要事項を記入。勝手に判子を押して、宮部の分を渡す。そして二人で保健室を出た。三年生の男子の先輩が一人前を通り、目があった。怪訝そうな顔をされた。
「それじゃあ」
「ええ」
僕たちは各々教室に戻る。
今回は運が良く、この事態が明るみに出ることはなかった。

それから数日経っての事。僕はまた放課後に適当にピアノを弾いていた。音楽系の部活動は、現在休部状態なので、音楽室、音楽室周辺共々閑散としている。ピアノを弾く手を止めて、ふうと深呼吸をした、丁度その時に音楽室のドアがゴロゴロと開いた。宮部が来たのだろうか。
しかし、音楽室に入ってきたのは宮部ではなく、僕の知らない女生徒だった。音楽室に用事だろうか。
「ああ、失礼。すぐ出て行くよ」
「違う。あなたに用があるの」
すこし攻撃的な口調である。
「僕に?」
「ええ」
ここで、僕は彼女の攻撃的な口調が、僕に対する敵意であることに確信を持った。それは宮部の持つ、防御のための敵意ではなく、攻撃のための敵意であることも瞬時に理解した。しかし、過去に何か人に恨まれるような事はやった覚えがない。あったとしても、怨みを買う対象は宮部ただ一人だと思うので、彼女は微塵も関係ないはずだ。一体どうしたのだろう。
「そういえば、名前は?」
「……神崎那月」
「あ、そうだ。去年隣のクラスで、個人研究の授業とかで一緒だったね。君」
「そんなことはどうでもいいでしょ」
「ふうん。それで、用って何だい?」
だから僕は自分と相手の感情から三歩ほど下がった俯瞰的な口調で接した。その態度が気に入らなかったのだろうか。神崎は腹立ち紛れに用件を話す。
「これ以上、葉月ちゃんと関わらないで」
「………………ん?」
「だから、葉月ちゃんと関わらないで」
「……はあ」
彼女が何を言ったのか、それを理解するのにしばらく時間がかかった。そして、内容は理解したものの、その理由までは想像がつかなかった。いや、宮部自身が嫌だからと僕に言ってきたのなら分かる。でもそれなら、人づてには言わないだろうし、そう考えると、初対面の第三者にそう言われるのは、とても不自然だ。
「どうして?」
お陰で、返せた言葉はこれだけである。
「それは、あなたが葉月ちゃんのことを傷つけているから」
「それは宮部自身がそう言ってたのかい」
「いや」
「なんでやねん」
オールドファッションなツッコミが出てしまった。
「でも、私には分かる」
「そんなに仲がいいのか」
しかし神崎はそこで神妙な顔つきになる。どうやら違うみたいだ。
「じゃあ君は、一体何なんだい?」
「私は、友達……だった」
「友達だった?」
何か引っかかる言い方だ。
「この前、保健室から、あんたと一緒に出てくる葉月ちゃんを見た」
「ああ、そうだね」
論点をずらされたことは、気にしないことにする。しかし、どこで見ていたのだろうか。
「その少し前にも、私は葉月ちゃんを見てた」
「それで?」
「相当参ってるようだった。でもそれは、あんたと葉月ちゃんが関わり始めてからのこと。だから、あんたが、葉月ちゃんをそこまでさせた原因」
「なるほど。確かに今ある情報だけを論理的に組み立てたら、そういうことになるね」
でもそれは考えがあまりにも甘すぎる。早計だ。そう言いたかったが、すんでのところで思いとどまった。しまったな。結構面倒臭いことになりそうだぞ。この会話。
「それはそれとして、君は僕の質問に答えていない」
「別に、答える義務も義理も無いじゃない」
「でも会話が成立しないし、議論が進まない。下手に我を通すと、結局何にもならずに終わってしまうよ」
「何を偉そうに」
「で、『友達だった』っていうのはどういうこと?」
「それは……」
そして神崎は、唐突に昔話を始めた。神崎の昔話ではない。宮部の昔話だった。

「私は昔、それこそ幼稚園に通っていた時、よく近所の公園に一人で遊びに行ってた。そこでよく一緒に遊んでいたのが、葉月ちゃんと、あと華月ちゃんって名前の、双子の姉妹だった」
「華月? 初めて聞く名前だ」
「黙ってくれない?」
「………………」
「それで、葉月ちゃんたちがいるときには必ずいるおばあちゃんがいた。それはきっと葉月ちゃんたちのおばあちゃんなんだったと思う。私は二人ととても仲が良かった。だけど、いつからか私は公園に行っても、二人に会わなくなった。いや、会えなくなった」
意味深に最後を言い換えて、さぞドラマチックに、神崎は語る。
「人から聞いた話だけど、二人の両親は酷い人だったらしい。父親は子供に暴力を振るうし、母親は子供の面倒を全然見ない。だから、同居しているおばあちゃんが実質二人を育てていたみたい。だけど、そのおばあちゃんが亡くなって、とうとう二人の面倒を見る人がいなくなって、それから、父親からの暴力を受けるようになった。母親は行方をくらまして、父親からは暴力を受け続ける日々。そして、保護された時には、華月ちゃんは亡くなっていた」
神崎の、人の悲劇に酔いしれる様は、さぞ滑稽だった。
「それから、葉月ちゃんは親戚に引き取られて、小学校に入学したんだけど、私が昔遊んでいた葉月ちゃんとは、別人と言っていいほどに様変わりしていた。目つきがきつくなって、それで、誰とも関わろうとしなくなった」
「そして君は拒否された」
「………………そう」
そこから神崎は何も言わない。どうやら、これで話は終わりだったようだ。僕は神崎の振る舞いばかりが目についたのと、内容があまりにも自分にとっては非現実的だったからなのか、内容を十分には理解出来なかった。だから、自分の中で今の話を反芻し、咀嚼し直す。そうして、やっと今の話の全容をつかむことが出来た。なるほど。たしかに神原は友達「だった」んだな。
「そうか。そうだったのか」
初めて知った宮部の過去。いや、ここでは、知ってしまった、の方が正しいか。断片的に聞いても、酷い話だ。悲しい話だ。残酷な話だ。宮部は、そんな壮絶な過去を持っていたのか。
「でも、それなら……」
それなら、僕に浮かんだ感情は、紛れも無い怒りと、神崎に対する攻撃的な敵意だった。
「君は、最低だよ。最低だ」
僕は静かに言い捨てる。
「何でよ」
「君はその事を、やすやすと僕に話したから。話してはいけなかったんだ。それなのに、君はただの自己満足で僕に話してしまった。ただのエゴだよ。しかも、ただ人を傷つけるだけの」
そして僕はまた「最低だ」と付け加える。ああ、腹が立つ。もう今日は帰ろう。
「ちょっと、待ちなさいよ」
音楽室を出ようとする僕に、神崎は噛み付いてくる。
「もう君と話すことなんてないよ」
そして今度は振り向かなかった。

気分が悪かった。それは、神崎に対する苛立ちもあるが、一番大きいのは、自分に対する失望なのだと思う。何が「宮部は僕と似ている」だ。お門違いもいいところだ。僕と宮部とでは過去の重さが違う。抱えているものが違う。何もかもが、根本から違った。宮部は、ちゃんと生きているんだ。踠き、苦しみながら。僕は? ただちゃらんぽらんとしているだけだ。ちゃんと生きているだなんて、とても言えない。
宮部の言葉を思い出す。僕がただふらふらしているだけだと、彼女は言った。全くもってその通りだ。反吐がでる。何に? 無論自分自身に。自分が嫌になってくる。ああ、自分で自分の浅はかさに嫌気が差す。
帰り道、宮部に遭遇することはなかった。でも、そっちの方が好都合だった。今、どの面を下げて、彼女と向かえばいい? そもそも、僕が彼女と面と向かうことが許されるのか? 謝ればいいのか?何を? そんなこと、分かりきっている。だけど、それを宮部に言えるのか? 謝ってはいけないんじゃないだろうか。それこそ、宮部を傷つけることになるんじゃないだろうか? いや、それこそただ勇気がなくて逃げているだけなのではないか?
いっそのこと消えてしまいたかった。それくらいに自分が嫌になった。
でも、寝たら少しは気が楽になっているんだろうな。
もっと自分のことが嫌になった。
そう、僕は卑怯者だった。
自分のしたいことだけして、都合が悪くなったら、逃げ出すのだ。
全くもってどうしようもなかった。
でも、逃げ出したくはなかった。
どうすればいい?
答えは、考えても考えても、出ることはなかった。

それからしばらくは音楽室には行かなかった。何度か行こうかとも思ったが、もしも宮部と遭遇したらと考えると、その気も失せてしまった。無論、宮部とも会っていない。これだと神崎の思う壺なのだろうか。なんだか、してやられた気分だ。もしかすると、あいつはこうなることを見据えて、あの話をしたのか? いや、考えすぎか。しかし、気に入らないな。
時間割を確認する。今日の最後の授業は音楽だ。となると、いやでも僕は宮部と必ず会うことになるだろう。その時、僕はどうしているだろう。きっと、何とかして宮部を避けるのだろう。でも、それでいいのか?
駄目だ。何がとか理由なんてない。直感だった。駄目なものは駄目なのだ。
そんなことを考えていたら、午前中の授業の終わりと、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。先生の指示で、クラス長がぐだぐだと気だるげに礼を全員に促す。そして各々の行動を始めた。僕は持ってきた弁当をさっさと食べ終え、そして誰もいないであろう音楽室に向かった。
音楽室の扉を開けると、そこには誰もいないはずだったが、そうはいかなかった。人影が一つ。
「お、どうした。現実逃避か?」
音楽教員の佐々先生だ。
「半分当たりで半分ハズレです」
「そうか」
いつも通りのやり取り。ここによく来るようになって、目的を聞かれるたびにそう答えていたら、いつのまにかそれが挨拶の代わりのようになっていた。
「そういえば、最近、宮部はどんな様子だ」
ぎくりとした。どうもこの先生は僕と宮部が授業以外で関わりがあったことを知っているらしい。でも、どこまで知っているのだろうか。先生のどこか人を見透かしたかのような話し方に、僕はそう勘ぐらずにはいられなかった。
「宮部がどうかしたんですか?」
「いんや。何も」
わずかに癖のある口調で続ける。
「この前、少し体調が悪そうだったからな」
「そうですか」
何も言えなかった。それは自分のせいなのかもしれないから。
「ピアノは好きに弾け。俺の専門はピアノじゃないでよ、何も言いやしねぇよ」
そして先生は壁に取り付けられている大きなホワイトボードにペンを走らせる。授業の用意でもしているのかと思ったら、ただの落書きだった。描いているのは国民的な黄色い、ビリビリしていそうな鼠だった。
僕はピアノの前に座り、鍵盤の蓋を開けた。しかし、どうもその気になれない。
「ジョン・ケージか」
「そういうことにしておきます」
宮部が音楽室に来たのは、そんなやりとりをしている時だった。僕はこれまたどきりとし、先生は宮部が来るのを予見していたかのような態度で「ああ、宮部か」と返すのだった。
「あなた、またいるの?」
「まあね」
やれやれといった具合でため息をつかれる。それから宮部は、佐々先生へと、その視線の矛先を変えた。
「先生、風紀委員の活動報告書の確認をお願いします」
「ん。分かった」
先生は落書きの手を止めて、宮部に渡された報告書に目を通す。僕は自分もそろそろ報告書を出さなきゃなと思いながら、先生の落書きを見た。可愛かったはずの電気鼠は、角と牙が生え、険しい表情をして、何とも禍々しくなっていた。小学生の自由帳という言葉が頭の中に思い浮かんだ。
閑話休題。
一通り書類に目を通した先生は、落し物として安置されているボールペンを勝手に使って、それにサインをし、宮部に返した。
「んじゃ。鍵はそのままでええで」
そして落書きをぐちゃぐちゃに消し、さっさと音楽室を出るのだった。そして、音楽室には、僕と宮部だけが取り残される。多分、この問題を解決するのには、絶好の機会だろう。むしろ、これを逃したら、二度と機会は訪れない。そんなことは分かっていた。でも、なぜか言い出せない。どうしてだろう。理由なんて明白だ。僕に勇気が無いだけなのだ。
でも、そんなことでどうする? 僕はそうやって、逃げ続けながら生きていくのか?
そんなことを考えていると、いつの間にか宮部が音楽室の扉に手をかけているのが見えた。僕は慌てて、とっさに止めた。
「宮部」
「何よ? 私はあなたほど暇じゃないのよ?」
「あ、えっと、その……」
「はっきり言いなさいよ。思ったことをすぐに言い出すのは得意でしょう?」
その通りだ。全くもって、自分の柄じゃない。柄でもないことをやろうとしている。
「謝りたいんだ」
「何を」
でも、逃げないのなら、変わるのなら、そんなことは言ってはいられない。そうだろう?
「この前のこと、僕はよく君を分かっていないまま、君のことを知ったような口を利いて、その前にも、何度も無神経なことを言ってた。本当に勝手だった。ごめん」
なんとか謝ったが、どうしても宮部の顔は見れなかった。僕は自分の斜め下を見つめている。だから、宮部の反応が分からない。
すると、やや間があってから、宮部は呆れたようにため息をついた。
「本当ね。勝手だわ。でもそれは今だってそうでしょう?」
返す言葉もなかった。そして宮部は続ける。
「あなたは勝手に罪悪感に駆られてるけど、私には全く謝られる覚えは無いわよ。それに、この前の話は、感謝だってしたじゃない」
宮部の言葉は、あまりにも残酷で、僕の胸に深々と突き刺さった。でもそれは、同時に救いでもあった。
「私の感謝を、勝手に無駄にしないでちょうだい」
「ああ、ごめん」
宮部には敵わないな。そんな感想が浮かんだ。
「それと、ありがとう」
僕がそう言うと、宮部はわずかに怪訝そうな顔をする。
「別に、お礼を言われるようなことなんて、何もしてないわ」
「それでもだよ。ありがとう」
「……変な話ね」
宮部がまたため息をついた。それはいつも通りのため息だった。だから、これでこの問題は本当に解決したのだと、僕は安心することが出来た。
「それじゃあ、電気は消しておきなさいね」
そう言って、宮部は音楽室を出て行く。僕はこれ以上ピアノの前に座っている気にはならず、一音、ラの音だけを鳴らした後、鍵盤の蓋を閉め、蛍光灯のスイッチを切り、音楽室を出た。
教室に戻る足取りは軽かった。うん。いい気分だ。

「悪い。渡し忘れてた」
あの昼休みの後、音楽の授業も受けて、授業が全て終わり、さあ帰るぞと鞄に荷物を詰めていたら、クラス長にそんな言葉と一緒に生徒議会の招集状(クラス長、生徒会以外にも、各委員長はこの議会に参加しないといけないのである)を渡された。日付は今日で、指定された時間は放課後。つまりは今から議会なのである。やれやれ、面倒臭いな。
クラス長は僕が招集状に目を通している間にどこかに消えていた。無論僕は彼に何も言っていない。話す間も無く消えていたのだ。なんか冷たいなと思いもしたが、まあそんなものだということにした。彼は仕事も雑だし、ずさんなところもあり、お調子者だ。だが、不思議と人望はあった。案外、リーダーというのはほとんどがそういうものなのかもしれないな。
閑話休題。
教室を出る。廊下は今から帰ろうとしている生徒、とりわけ横に並んで話しながら歩いている生徒が多い。まばらに配置されたそれらを避けながら、僕は議会のある教室へと向かった。
議会のある教室は他の教室の、大体二、三倍の大きさがある。僕は出席確認を済まし、必要な書類を一通り取って、いつもの通りに、教室の後ろの方の、委員長席に座った。クラス長はまだ来ていなかった。
議会が始まるまで、一人ぼうっとしていると、宮部も教室に入ってきて、同じ委員長席でも、真反対のところに座った。無論それはそれぞれの委員会で座る席が決められているからである。だから僕は何も傷つくことはない。そしてそれは、今はどうでもいい事案となるのだった。
自分の隣に誰かが座る気配がした。しかし、いつもの人ではなかった。きっと代理の人なのだろう。だから僕は、ちらと隣を確認する。そして何とも嫌な気分になる。隣に座っていたのは神崎だった。
「やあ、久しぶり」
「………………」
神崎は僕が見えないかのように、僕のことを無視する。でも、僕は一方的に話すことにした。理由は無論、気に入らないからであり、あの時の報復である。
「どうも君の予測は間違っていたみたいだよ」
「………………」
「まあ、僕はかなり参ったけどね。しばらく色々と考えざるを得なかったよ」
「………………」
「それで、君は何のために、『宮部のための行動』をとったんだい?」
「………………」
「それとも、自分のためだったのかい?」
「………………」
「まあ、君の友達ごっこの理由なんて、僕にはどうでもいい話なんだけどね」
「……うるさいわね」
神崎が口を開いた。
「偉そうに。分かったような口利かないでよ」
「そうだよ。分からない。君と宮部が今、どんな関係なのか。君がこの前、何のために僕にあんなことを言ったのか。だから……」
「うるさい」
「僕には君の行動が、友達ごっこにしか映らない」
「黙れ」
「おお怖い怖い」
「本当に最低」
「そうだね。君からすれば」
僕はここで引き下がることにした。もうこれで、僕と神崎との間には、修復できない溝ができたのだと、直感で理解した。
議会が始まると、その間ずっと、神崎はわずかに僕に背を向けあからさまに僕のことを遮断しているのが分かった。そして議会が終わると、さっさといなくなってしまった。神崎が僕に関わってくることはもう無いだろう。これで、この問題は結果はどうであれ、一部分解決したのだ。多分。
でも、もしかしたら、一番肝心なところが解決されていないのかもしれない。そんな予感がした。

それから、何事もなくぼうっと過ごしていたら、いつのまにか梅雨も明け、七月になっていた。運動部のほとんどは夏の大会に向けて練習に励み、それ以外の人間の一部は夏休みを目前に、やや浮かれていた。そのどちらにも該当しない人は、大概が僕みたいにぼうっとしていた。
「最近よくここに来るね」
「教室だと集中できないのよ」
しかしこれにも当てはまらない人間はいて、今僕から向かって右の机でコツコツと自習をしている宮部は、その最たる例だ。そういえば、宮部が最近校内の見回りをしている姿を見なくなった。どんな心境の変化があったのだろうか。まあ、それを宮部に聞いても、あなたには関係のない話、と言われて終わるのが常だから、聞かないでおこう。
「それは、課題を先に済ましてるの?」
「いえ。さっきの授業の復習よ」
「うわあ、真面目だ。偉いね」
「あなたの不真面目が過ぎるのよ」
「それは不服だな」
「それなら、課題でもいいから、何かやってみてはどうかしら?」
「面倒臭いなあ」
確かに、もう夏休みの課題は発表されている。さらには、休みが開けた直後には考査も控えている。今から勉強していても、別におかしい話ではない。でも別に、今やらなくてもいいじゃないか。何しろ、夏休みの課題、なのだから。
そんなことを考えていると、宮部がため息をついて、ペンを置いた。開いていた教科書とノートも閉じてしまう。
「もういいのかい?」
「ええ。あなたを見ていたらやる気が出なくなったのよ」
「僕みたいになるよ」
「あなたみたいに? それはあり得ないわ」
悪意の無い呆れと嘲笑を交えて、宮部がそう言う。
「違わないね」
そしてここで宮部との会話は終わり、僕はピアノを弾き始めた。
しかし不思議だったのは、そこから後のことである。てっきり僕は、宮部がそのまま音楽室を出て行くと思っていたが、宮部は音楽室に残り続けているのだ。何でだろう? そんな疑問を感じながらピアノを弾いていたら、鍵盤を押し違えてしまった。ただ思いつきで弾いているだけだから、押し違えなんてないのかもしれないが、しかしあまりにも変な音になってしまった。
「あ」
思わず声が漏れる。
「何? どうかしたの?」
「いや、ただ間違えただけだよ」
「あなたのピアノは、まず楽譜なんてないでしょ? 間違えることなんてあるの?」
「間違えたと思ったら、それは間違いなんだよ」
「それだけ聞くと、なんだかよくある話ね」
「そうだね」
僕はピアノを再開する。まだ宮部は席を立たないで、陽の差し込む窓際に置かれた観葉植物を眺めている。しかし体調が悪そうな素振りは無い。本当に不思議だ。彼女の中に、一体どのような変化があったのだろうか。
「あなた、ピアノはいつからやってるの?」
宮部が、かなり予想外の質問をしてきた。やっぱり彼女は熱があるのではないだろうか?
「だいたい一年とちょっと前からかな。誰からも習ったことはないし、本当に思いつきで弾いているだけで、今こんな感じ」
「そう。理由は?」
「単純に、防衛だよ。自分の」
「防衛?」
宮部がうまく話がつかめないという顔をする。
「中学生の時から、自分ってものが分からなかったんだ。特に好きなものもない、打ち込むものもない。人の話には合わせるけど、やっぱどこか違和感を感じる。環境に溶け込めなかった。かといって自分の世界というのも無かった。だからさ、浮いてたんだよ」
よくある話だ。
「それで、自分が自分でなくなるのが怖かった」
「そういうこと」
だから防衛。自分の防衛。
「そう」
宮部が何となくは分かったという意思を込めた相槌を返してきた。
「それで、どうしてピアノなのかしら」
「それは、ちょうど音楽室に誰もいなかったし、そうしている間は周りから自分が遮断されている気がしたからだよ」
「そう。そうなのね」
何故だろう。何から何まで、僕は全部宮部に話していた。平生の僕ではあり得ないことだが、そうしていたのだ。やはり、僕は宮部に侵略されつつある。この実感はあの黒猫の件以来だったが、でも考えてみると、それは常に現在進行形の事象だった。でも……
「でもね、最近はどうもそうじゃないんだよ」
宮部に侵略されてなお、僕は保たれている。
「結局、打ち込めるものは無いままだけど、君と話していても、何も違和感は感じないし、僕は僕のままでいられている」
それはこれまでになかった変革で、多分、宮部がいなければ成し得なかった事だろう。
「だから、今の目的は、ただ何となく」
「結局、『ただ何となく』なのね」
「それと、今はここに来ると、いい話し相手がたまにいるからね」
「あらそう」
今のはすごくどうでもよさそうな相槌だった。
「人たらしみたいね。今の」
「言われてみればそうだね」
そして互いに、互いが分かるか分からないかの程度で、僕たちは笑った。

夏休みになった。青い春の謳歌を義務づけられている高校生達は部活やら、文化祭の用意やら、勉強やら、旅行やら、各々のやりたいことを伸び伸びとやって、義務を果たそうとしていた。そんな中、僕は特にやりたいこともないので、適度に課題なんかをつつきながら、だらだらと過ごしていた。しかし、ずっとそうさせてもらえるわけではない。僕の学校では八月の初めに出校日を設けているのだ。
「全く、何で出校日なんてあんのかなー。今日提出の課題なんて、必要ある?」
クラス長が呑気にそんなことを言った。確かに、出校日も、その日に提出しなければならない課題も、別になくてもいいとは思う。だが、そんなことを言い出すのは、クラス長を初めとする、一部の人間だけだ。すると一緒に話してる連中(無論僕は外から聞き耳を立てているだけである)の一人が、それに答える。
「でもどうせ提出しないんでょ」
「当ったりー」
どっと、その輪の中で笑いが起こる。その周囲の連中も、それを聞いていたのか、愉快そうに彼らを見る。そう。彼は提出物をほとんどやろうとしないし、結果として提出もしない。そのため、成績も中の下といったところだ。正直言って、彼はちゃらんぽらんな男なのである。しかしここまで周りがそれを許容しているのが、少し不思議だった。いわゆるカリスマ性だろうか。それなら、少しぞっとする。
それから、始業のチャイムが鳴り、担任の先生から体育館への移動が命じられる。体育館で、説法一歩手前のありがたいのかありがたくないのかよく分からない話を聞き流し、教室で提出物を回収して、出校日は終わった。所要時間約一時間半、全く実のない不思議な時間だった。
それで僕は家に帰れればよかったのだけど、そうは問屋が卸さないといったところで、その後には臨時の生徒議会があるらしい。気は進まないが、仕方ないので議会のある教室まで行くことにした。
その道中、僕は佐々先生とすれ違う。目があったので軽く挨拶をして通り過ぎようとしたところで、僕は先生に呼び止められた。
「丁度良かった」
「僕はこれから議会ですよ」
「まぁ三十秒もあれば終わる」
そう言って、先生はごそごそと持ち歩いていたファイルから、二枚のチケットを取り出す。
「知り合いからもらった美術館のチケットなんだけどよ、俺は三枚あれば十分だで、お前にやるわ」
つまりは五枚もらったことになる。どんなコネなんだろうか。
「なんで僕に?」
「思いつきだ」
「そうですか」
僕はその思いつきで渡されたチケットを眺める。どうも内容は印象派の絵を集めに集めた特別展らしい。そして、チケットに印刷された絵が、どうも僕の中に引っかかった。
「じゃあ、ありがたくもらっておきます」
だから僕は、そのチケットを受け取ることにした。
「ん。それじゃ」
僕がチケットを受け取ると、先生はすぐに行ってしまった。だから僕も、それを胸ポケットにしまって、議会のある教室への移動を再開した。

議会では、文化祭の各クラスでの用意において、片付けがちゃんとされてなく、校舎が絵の具で汚されたまま放置されているのが見つかった、という話だった。だから片付けを徹底するようにクラスに言えとのこと。何でそれをさっきの説法の時間に言わなかったんだろうと思ったが、もしかしたら僕が聞き流していただけの話かもしれないので、気にしないでおくことにした。
 そんな半分どうしようもない話をいくつかした後、二、三個連絡を済ませ、議会は終わった。その後は自由解散なので、さっさと帰りの支度をして、さっさと出て行く人もいれば、そのまま立ち話に興じる人もいる。僕も結局使うことのなかった筆箱と、自分には関係のなかった配布物を鞄に詰め込む。その時、胸ポケットの違和感に気付いたのと同時に、そういえばさっき先生から美術館のチケットをもらったことを思い出した。胸ポケットに入れていても少し邪魔だし、一緒に鞄にしまっておこう。そんな風に思ってチケットをポケットから出し、ただ何となくそのチケットを眺めた。チケットにはとある一人の少女の肖像が印刷されていて、そこからは、透き通るようで、しかし、どこかたどたどしいような空気感が感じられる。僕はさっき、そこに何かが引っ掛かったのだ。僕はそれを凝視する。しかしそれが何なのか、答えは出ない。しかしこうやってずっと考え込んでいても仕方がないので、僕はその引っ掛かりの正体を探ることをあきらめ、チケットから顔を上げた。すると、宮部が片付けをしているのが目に入る。
 すると、何かピンときたものがあった。成程。僕はあの絵に違和感を感じていたとかいうわけではなく、どうも宮部の持つ空気に似ていると思ったのだ。宮部のどっち付かなさ、とでも言おうか。そんなものが頭の中でこの絵と一致したのである。
 そこで、僕はちょっとした欲求に駆られた。この絵と、宮部を、同時に見てみたい。どんな調和を作り出すのだろうか。それとも、完全に分裂した何かになるのだろうか。そんな興味が僕の中で芽吹いた。
 しかし、だ。ここで宮部一人を誘ってみるとなると、これはいわゆるデートとなるのではないだろうか。うん。間違いなくデートだ。そう考えると、どこか気恥ずかしさが込み上げてきた。しかし、さっきの興味は薄れることもない。参ったな。
 そんなことを考えている間に、宮部は片付けを終えて、教室を出て行っていた。辺りを見てみると、人の数もかなり減っている。もう早く帰りたいのだろうか、生徒会の一人が何とも恨めしそうに残りの生徒を眺めていた。彼らは生徒が全員帰った後に、教室の片付けをしないと、帰ることが出来ないのだ。僕はこれ以上彼らを困らせるつもりも無いので、そそくさと教室を出て行くことにする。
 教室を出た後は、これから誰かに用事があるというわけでもなかったので、僕も他の人と同様に校舎を出て、帰路についていた。僅かにタイミングがずれたので、道にはもう生徒の影は無い。更にはこんな真夏の昼間にわざわざ外で活動する人もそういなかったので、結果的に道には僕一人しかいなかった。特に理由もなく、開放的な気分になる。少しスキップでもしてみようか。そんなことを考えてもみたが、それは実行に移す前に、僕の理性によってストップが掛けられた。今、ここの道に誰もいなかったら、間違いなく僕はスキップをしていたのだが、これまた何という巡り合わせなのか、僕の目にはそこそこ前方で宮部がまた黒猫をかまっているのが映ったのだ。
 話しかけようか少し悩んだが、結局僕は宮部に話しかけることにした。
「その猫はこないだの子?」
「ええ、そうよ。何でか分からないけど、妙に私に懐いてるのよね」
宮部は特に驚いた様子も見せずに、いつも通りにそう返答する。どうやら僕の存在には気づいていたみたいだ。
「珍しいね」
「そうかしら。よくあるんじゃない? 最近は無責任に餌をやる人とかもいるみたいだし」
「ああ、それで人に懐いちゃったのか」
「そういうことよ」
「そんなものか」
「そんなものよ」
会話がひと段落つく。しかし、どうしたものかな。
「僕も、撫でてみてもいい?」
「私に聞かないでちょうだい」
「それもそうか」
以前、一回拒否されていたからなあ。だから僕は宮部の隣にしゃがんで、黒猫に向き合う。
「あなたを撫でてもいいですか」
宮部が顔を背けた。肩が少し揺れている。黒猫から返答は無かったので、勝手に撫でることにした。頭や背中を触ると、思いのほかしっとりとした感触がする。狭い額を親指でなぞると、黒猫は両目をきゅっと瞑る。なんとも可愛らしい。
ひとしきり笑い終えたのか、宮部はまた黒猫の方を向く。
「あなた。随分と変なのを自覚してる?」
「あんまり」
「そう。おかしいわね」
「そうですか」
宮部はどことなく愉快そうだった。今なら何となくで、ことを先に進められるかもしれない。
「あのさ、宮部」
「何かしら」
「さっき佐々先生に会ってね、美術館のチケットをもらったんだよ」
「そう。良かったわね」
「だけど、それが二枚なんだ。僕は二回も行くことはないけどさ、一枚使わずに終わるのもなんか申し訳なくてさ」
「そう」
「それで、よかったら一緒に行かないか?」
しばらく反応は無かった。僕も宮部も、何も言わずに猫を撫で続けている。
「……はぁ」
宮部がため息をついた。
「あなたって本当に変ね」
「そうかな?」
「ええ、そうよ」
「そっか。それで、お返事の方は」
「……ええ、いいわ。行きましょう」
それから、僕と宮部は連絡先を交換した。美術館に行く日をいつにするかとか、そんなやり取りをするためだ。
そして、八月下旬の土曜日に、美術館の近くの駅前で待ち合わせることになった。

夏休みも終わりに近づき、そろそろ二十四時間も芸能人が走らされる頃合いであろう土曜日の朝、僕は美術館の最寄駅で電車を降りる。そして改札を抜けると、待ち合わせ時間の五分前にも関わらず、改札前にはもう宮部の姿があった。ベージュ色の斜めがけ鞄が、何とも彼女らしいと思った。
「おはよう」
「ええ、おはよう」
いつもの通りの空気感で、互いに挨拶を交わす。そしてそのまま二人で美術館に向かった。駅から美術館までの所要時間は、歩いて大体五分。程よいアクセスの良さだ。
受付には、なんともパッとしない三十歳後半あたりの男がいた。僕がチケットを二枚渡すと、さっと僕らのことを一瞥し、それから「ごゆっくりお楽しみください」と僕たちを送り出した。
普段からそうなのか、夏休みだからなのかは分からないけれど、美術館には多くの人が来ている。僕と宮部はとりあえず二人で並んで、作品を一つ一つ鑑賞していった。初めの方はこれまでの印象派画家の初期の作品や、その時代に関連する絵画作品が展示されているらしい。どこか十八世紀的な作品が多かった。僕も宮部もだらだらと流動する人の流れにそって、それなりにじっくりと作品を鑑賞しながらも移動していく。途中から半分別行動のようになると思っていたが、意外にも終始僕と宮部は二人で並んでいるのだった。
展示会場は二階と一階に分かれていて、二階の展示の終わり辺りから、いくつか有名な、いわゆる印象派と呼ばれるような作品が見られるようになった。人の流れはこの辺りで急になくなり、それぞれがそれぞれの見たい作品を自由に見て回っていた。しかし僕と宮部はさっきとあまり変わらないペースで鑑賞を続けている。
そして、二階の展示を全て見終えて、一階に行く。そしてすぐのところに、目当ての絵があった。宮部はさっきと同じように絵を見に行く。僕はそこで立ち止まった。宮部とその絵が、僕の視界に丁度入る構図になる。
「どうかしたの? 急に立ち止まって」
宮部が僕の方に振り向く。僕はその瞬間を目に焼き付けた。
「いや、何も。ただ、君とこの絵が並ぶところを見てみたかったんだよ」
誤魔化そうかと思ったけど、結局本当のことを言い直した。
「そう。そんなことをして、楽しいものかしら」
「まあ、ね」
「そう」
僕は宮部の隣に戻る。そして、宮部と並んでその絵を見た。とてもいい絵だと思った。だけどやはりさっきの、宮部とこの絵が並んだ時の方がより美しさが増すなとも感じた。宮部の持つ空気感が、あの絵の持つ空気感を拡張していて、また逆も成り立っている。そんな気がする。そして何より、それらによって生まれた直線的な純粋さが、僕の心に強く響いたのだ。
宮部を誘ってみてよかったと、ただ何となく、そう感じた。

展示を見終えて美術館を出る。太陽はまだ高く、暑苦しい大気が僕と宮部にまとわりつく。
ここから先の予定はない。特に何かすることも思いつかない。ここで終わりにしても良かったが、それはどうも勿体無い気もしたので、美術館の横にある公園を少し散歩しようと提案した。
「ええ。いいわよ。意図はわからないけど」
「意図なんてないよ。ただ何となく」
「相変わらずね」
夏も終わりに近づき、蝉の声は大分少なくなっていた。木々の織りなす影が道を覆い、それなりに心地の良い散歩道を演出していた。
「そういえば、宮部のクラスは文化祭の準備とか、もう進めてるの?」
「やっている人はやっているけど、人がなかなか集まらないって、クラス長は困っていたわ」
「そうなんだ。宮部も手伝いに行ってるの?」
「呼ばれた時には行ってるわ。まあ、そんなに呼ばれることは少ないけれど」
「そっか。でも偉いね。僕のところだと、そうもいかない」
「まあ、そうよね。あなたのところのクラス長、提出書類もいつも提出期限過ぎてじゃないと出さないもの」
「なんだか申し訳ないね」
「あなたが謝る必要はないわ。むしろ逆にあなたは困ってるんじゃないの?」
「どうも保健委員はクラス宛にはそういう書類が無いからね」
「そう。それは楽そうね」
「実際仕事は楽だよ。面倒なのは行事の時くらいだから」
そんな風に他愛もない話をしていると、向こうの方で遊んでいる二人の子供がいた。近くにはおそらくその子たちの両親であろう男女もいる。子供はどちらも同じような背丈で、服もお揃いのものだった。遠くからだから顔はわからないけど、側から見ると双子のようだった。
「………………」
宮部もそれを見ていた。その顔には影が落ちている。やはり、何か思うところがあるのだろう。僕は極力それに触れないようにしようとは思ったが、多少はそのことについて知ってしまっているから、能天気に話題を変えるとか、そんな軽々しい真似は出来なかった。
「宮部」
「……あ、ええ。何でもないわ」
声を掛けると、宮部はほんの僅かに慌てたようにそう返してまた歩き出した。しかし表情は暗い。僕は何も気が利いたことが出来ないし、こんな時にどう声を掛けるべきなのかが分からない。それがどうにも悔やまれた。
「ごめんなさい。少し疲れたわ。休みましょう」
「そうだね」
道の途中にベンチが現れた、その時に宮部にそう提案された。僕と宮部は二人並んでベンチに座る。
僕たち以外に、通行人の姿は無かった。こんな暑い日だから、それもそうだろう。
暑い日? そういえば、僕も宮部も互いに待ち合わせをしてから何も飲んでいない。それはまずいな。
「宮部、少しそこで待ってて」
「え、ええ」
そして僕は近くに自販機がないか探した。すると意外と近くにあったので、そこでスポーツドリンクを二本買って、宮部のところに戻る。そして、片一方を宮部に渡した。
「はい、宮部」
「え、あ、ありがとう」
突然のことに驚いたようだった。
「ところで何円だったかしら?」
「いやいやいや」
いやいやいやいや。
「?」
宮部が素直に疑問符を浮かべる。
「いや、今日はさ、言ってみれば僕のわがままに付き合ってもらったようなものだか、せめてものお礼に、さ」
なんとか取り繕ったけど、しかし当然のようにお金を返されそうになるとは思わなかった。僕は一瞬、何とも言えない気持ちになった。
「そう。それならありがたく頂くわ」
宮部はそう言って、ペットボトルの蓋を開け、口をつける。半濁の液体が、宮部の喉に流されて行く。僕はどこか一安心し、また宮部の隣に座って自分の分のペットボトルを開けた。
それからしばらくして、
「ねぇ」
「何だい?」
宮部が不意に口を開いた。
「今からする話は、聞いていて楽しい話じゃないし、あなたをすごく嫌な気分にさせるかもしれない。でも、聞いてほしいの。いいかしら」
「……うん」
今から宮部が何を話そうとしているのか、僕にはすぐに見当がついた。宮部がそのことを自分の口から話すことは、とても勇気がいることだろう。だから僕は宮部の意思を尊重した。
「私には、双子の妹がいたの。華月っていう名前で、私たちは仲のいい姉妹だった」
宮部がぽつりぽつりと話を始める。
「私たちの両親は、ちっとも私たちの面倒を見ようとはしなかった。父はたまに私たちに暴力を振るうし、母も私たちのことなんて気にすることなく、酒を飲んだり、遊びに行ったりしていた。だから、祖母がほとんど一人で、私たちを育てた。だけどその祖母は、私たちが五歳になった頃に死んだ」
ここまではこれまでに聞いた話だった。でもそこから先は、僕にも神崎にも分からない、彼女だけの話だった。
「それから母は薬物に溺れて、父の暴力も酷くなった。ご飯がもらえないことや、何度も殴られることが増えた。それでも何とか華月と私とで、助け合って生きてた。親の目を盗んで、昔祖母からもらって大事に隠しておいたなけなしのお小遣いを使って、パンを買いに行ったこともあった。片方をかばって、一緒に殴られることもあった。そんな日々が、一年近く続いたある日、母が帰ってこなくなった。父も私たちに興味を無くしたようだった。私たちはベランダに締め出されて、そこで放置された。もちろん食べるものも、飲むものもない。お風呂もなければトイレもない。運が良かったのは、それが真夏や真冬のことじゃなかったこと。私たちはベランダにあった、いつのか分からない、多分猫よけのための、ペットボトルに入った水を分け合って飲んだ。二週間が経つ頃には私たちは二人とも弱りきっていた。今でもそのあたりの記憶は曖昧なままよ。そして、誰かが通報したのか、家に児童相談所の人が来た。私は助かったけど、華月は栄養失調で死んでいた」
それを聞き終えた僕は、しばらく言葉を失った。何ともいえない感情が、胸の中でふつふつと湧いていた。宮部は話し疲れたのか、一息ついて、手元にあるペットボトルに再び口をつける。
「……そうか。そうだったのか」
前々に望まざる形ではあったが、その話をある程度聞いていて、心構えができる状態だったのは、結果的に運が良かったのだろう。一応、僕は冷静でいる。そして、どう声をかけるべきなのか、それを考える。しかしどうしても、何を言えば一番ふさわしいのか、その答えが思いつかなかった。
「……辛かったね」
「ええ……」
やっと絞り出せたのはこんな言葉だけだった。
「私一人だけが、こんな風に普通に生きていいのかって、思わずにはいられない。私一人だけ助かって、私一人だけ生きている。華月だって、生きていたかったでしょうから。だからいつも、誰にというわけでもないけど、申し訳なく思っている」
「………………」
「そして、そう思っている自分が、嫌で仕方がない。だってこんなの、ただの自分への慰めで、誤魔化しで、単なる自分のエゴでしかないじゃない」
宮部の顔は苦しみに満ちていた。
「……違うよ」
「何が違うの」
「何が……それはよく分からない。だけど、君はそれとは違う気がするんだ。確かに、その感情は君の弱さそのものかもしれないけど、君は単純に優しいだけなんだよ」
宮部が僕のことを見る。そして何か言おうとして、口をつぐみ、また俯いてしまった。
「……何であなたは」
その声は泣く寸前の子供のように震えていた。
「そういう事ばかり言って、いつも私に寄り添おうとするのよ。私なんかに、関わらない方が良いのに……」
これが彼女の本音だったのだろう。だから僕にこの話をした。自分が傷つくのも、僕が傷つくのをも恐れて。だからこの一回で、これ以上、負う傷が深くならない内に、終わらせようとしたのかもしれない。それなら僕はそれに対して、自分の答えを彼女に言おう。
「それは多分、君が僕に似ているような気がしたからだよ。まあ、僕と君とでは持っているものが違いすぎるけどね」
すると宮部はどこか安心した具合に、そしてどことなく愉快そうに訪ねてきた。
「何よそれ? まるで自分で自分のことを優しいって言っているようなものじゃない」
「あれ? 僕はこう見えて優しい人間だよ?」
「ええ、そうね。そう。あなたは優しい人間だわ」
宮部はとうとう堪え切れなくなったのか、声に出して笑った。
「ねえ」
「何だい?」
「ありがとう」
「………………うん。どういたしまして」
どこかむず痒く感じて、僕は頭を掻きながら目をそらした。

「それじゃあ、また学校で」
「ええ」
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
あの後、来た道を戻って駅に行き、そこで宮部と別れた。宮部は駅から歩きで家まで帰れるようで、歩いて帰るのだそうだ。
「それじゃあ」
「ええ」
そして宮部はちょうど青になった横断歩道を渡る。僕はそれを見届けて、駅の中へと入っていった。

次の日、珍しく早い時間に起きた僕は、朝食を摂りながらテレビのニュースを見ていた。政治家の不祥事のニュースに対して、若いニュースキャスターが何やら滅茶苦茶なことを言っていた。そして、次のニュースに移ると僕は信じられないものを目にした。
昨日の夕方に起きた交通事故。トラックが居眠り運転をしていたらしい。女子高生が一人重傷を負い、意識不明の状態で病院に搬送されたという。事故が起きた場所は、昨日宮部が駅から歩いていった方向だ。
そしてその映像には、ベージュ色の鞄が写っていた。
「嘘だろ」
嘘だ。きっと何か夢を見ているのだろう。宮部が事故に遭うところを想像するなんて、僕も常々酷い奴だ。そうなんだ。これは嘘に決まっていて、僕が常々酷い奴なんだ! そうに違いない! そのはずだ!
僕は自分を落ち着けるためにも、ちゃんと朝食を食べて、出校日でもないのに制服に着替え、家を飛び出した。

学校に着いて真っ先に向かったのは、音楽準備室だった。
「先生」
「どうした。そんなに慌てて」
予想通り、佐々先生は準備室の机にいた。
「先生は何か知っていますか」
「何を」
「今朝ニュースでやっていたことです」
「話がつかめない」
「ですから……」
「ひとまず黙れ。そして座れ。落ち着いてから話せ」
「……はい」
確かにその通りだ、僕の言っていることは何の要領も得ていない。相手に伝わる話し方をしてやっと、会話は成立するのだ。
僕は近くにあった丸椅子に座る。そして、先生が紙コップに注いで渡してきたスポーツドリンクを、顔が引きつりはしたが何とか飲みきった。
「……で、朝のニュースの話ってどういうことだ」
「昨日の夕方に女子高生が交通事故に遭ったっていうニュースのことです。そこに映っていた鞄が、昨日宮部の持っていた鞄と同じだったんですよ」
「ん? すると、お前と宮部は昨日何かしらの理由で一緒にいたってことで良いんだな?」
「あ、はい」
「つまりはニュースで見た映像、情報の条件が昨日お前が見た宮部の情報と合致したから、事故に遭った女子高生ってのが、もしかすると宮部なのかもしれないと、そう考えたわけだな?」
「はい、そういうことです」
「なるほど……」
先生は椅子の背もたれに体重をかけ、腕を組み、目を瞑る。それからしばらくの間沈黙し、重々しく口を開いた。
「まあ、いずれ分かることだからここで言っておく。ただ、分かっているとは思うが、これは絶対に口外するなよ」
「ということはつまり……」
「お前の考えた通りだ」
「そんな……」
「とにかく、今日はもう帰れ」
「はい……」
僕が教室を出ようとすると、「おい」と先生に呼び止められた。
「運が悪かったといえばそれまでの話だが、お前はそんな風には思わないだろうから言っておく。お前は何も悪くない」
「……ありがとうございます」
僕は教室を出た。ただ、どうしても家に帰る気にはならなかった。

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