『for hazuki』番外編「もしものもしも、僕の恋人があの日死んでいたら」

ニュースを見て、宮部が死んだことを知って、誰に掴みかかってこんなことは嘘だと叫び散らせば良いのかも見当がつかなかった僕は、自分の部屋で布団を被って、膝を抱えていた。目は開いているが、目の前に広がる景色は昨日の公園のそれで、僕の隣には宮部がいる。それは言うまでもなく夢だ。現実ではない。何しろ今、現実は救いがたいほどに、絶望的なのだから。
震えが止まらない。いきなり何かが抜け落ちた喪失感と、それに骨抜きにされて形を崩した感情に、心が押しつぶされそうになる。
「助けて……」
誰に宛てたわけでもないであろう震え声が聞こえ、僕の意識は現実に引き戻された。自分以外にも似たような境遇の人がいるのかと一瞬思ったが、当然部屋には僕一人だ。つまりさっきの声は僕の口から発せられたものらしい。全くもって、本当に、救いようがなかった。
携帯には、何の連絡も入っていない。チャットの履歴を見ると、最後のメッセージは宮部と昨日のことについてやり取りした時のものだった。それは紛れもなく彼女の存在の証明だった。
そして絶望した。
ついこの間まで、昨日まで、生きていた宮部は、僕と美術館に行って、自身の苦悩を話した宮部は、もういない。あのため息も、人を軽蔑するような鼻笑いも、永遠に聞くことはない。あの睨みつけるような眼差しも、野良猫に優しく接する姿も、もう見ることはない。
その現実に、僕は絶望した。
そしてそんな状態のまま、僕は残りの夏休みを過ごした。

夏休みが明けた。
始業式の場で、やっと、宮部が死んだことは全校の生徒に伝えられた。以前から知っていた人もいたが、驚いたことに、全くそのことについて知らなかった人もいた。僕はそんなやつらに当たり散らしてやりたい衝動を、必死で抑える。校長の合図で生徒は皆黙祷を捧げるが、僕は何もせずただ足元を眺めていた。こんなものには何の意味もないと、心の底から思った。
休み明けの実力考査は、そのほとんどを白紙で提出した。何も考えられず、頭も指も全く働かなかったのだ。もちろん全て赤点だった。でも、何も咎められることはなかった。誰かが便宜を図ったのだろうか。でも、そんなことはどうでもいい。
放課後になって、何も考え無しに、気づいたら僕は音楽室にいた。ピアノは弾いていなかったようで、鍵盤には黒い蓋がされている。
しかし意識が戻ったところで、僕は結局ピアノは弾かない。何故だか分からないが、鍵盤を押すのが怖かったのだ。
「……いた」
入り口から声がする。もちろん宮部のものではない。だから僕はゆっくりと、声の主がいる方向を向いた。
そこには神崎が立っていた。その目はひどく荒み、放つ空気は、まるで砂が混じってるかのようにざらざらしている。
「……どうしたのさ?」
僕は神崎に尋ねる。しかし中々返事は返ってこない。そして、無益な睨み合いの時間が、何分も続いた。
「……お前のせいだ」
「………………」
そして、神崎から絞り出された言葉は、それだけだった。それだけ言うと、神崎はすぐにその場を去っていった。僕だけが残される。どうしようもなく救いようのない時間に、僕は一人でいる。
「確かに」
そして僕は独白した。
「僕のせいだ」

家に帰る途中で、僕は宮部か事故に遭った交差点に行った。花が添えられていた。僕はそこに何も置かなかった。去り際に主婦らしき人から後ろ指を指されていることは、気づいていないふりをした。
帰り道、横断歩道の歩行者信号が青に変わるまで、僕は赤の歩行者信号をひたすらに眺める。そしてそれが僕の視線に根負けしたのか、青信号に変わり、僕は横断歩道をわたり始める。
その時まではまさか自分までもが車に轢かれるなんて思ってもいなかったが、どうも不幸は連鎖するらしい。
横を向いた僕の目の前には、かなりの勢いで迫ってきていた軽自動車の姿。
ああ、死ぬのか。そしたら、宮部に会えるのかな。
僕は死を目前に、そんな風な僅かな希望を見出しかけていた。

目が覚める。
そして今自分の体が一つに繋がったままでいることを直感すると、どうしようもない安堵感に襲われた。全く、悪趣味な夢だ。縁起でもない。
体を起こす。時計を見ると、午前2時を指していた。丑三つ、嫌な時間である。
そこで僕は気づく。体の震えが止まらない。それもそのはずだ。何しろ、恋人が死ぬ夢を見たのだから。
ひとまず安心したくて、隣を見る。
「わっ」
すると葉月は横になったままこちらをずっと見ていた。
「びっくりした」
「どうしたのよ? 魘されていたわよ」
「そうなの?」
「ええ」
「そうか……」
「どんな夢?」
僕は少しだけ堪えるのに躊躇する。君が死んだ夢だったなんて、正直には言いづらい。
「……大切な人が、死ぬ夢だったよ」
「……そう」
葉月は短く答えて、自分の体を起こす。そして、布団を出て、僕の方に近寄ってきた。僕は無意識的にと言うか、予定調和的にというか、とにかく何も考えることなく、葉月を抱きしめた。直感的に、彼女を感じることにした。
「ごめん。少しだけこうさせてくれないかな?」
すると葉月は少し驚いた様子だったが、やがて落ち着いた調子で「ええ」と答える。
「少しじゃなくても、気がすむまでそうしていればいいわ」
「……うん」
僕はその言葉に甘えて、体感で五分くらいだろうか、ずっと葉月のことを抱きしめ続けた。抱擁を解く。そしてお互い、向き合ったまましばらく黙っていた。
すると、葉月は立ち上がり、キッチンへと向かう。
「ホットミルクを入れようと思うんだけど、あなたも飲む?」
そしてそんなことを訪ねてきた。
「うん。お願い」
葉月は手慣れた仕草でマグカップを二つ取り出し、そこに冷蔵庫から出してきた牛乳を入れ、電子レンジにかける。あっという間に、二人分のホットミルクが出来上がった。
僕がテーブルを用意して、そこに葉月と向き合うような形で座る。
「はい」
「ありがとう」
葉月が持ってきてくれたマグカップを受け取って、それに口をつける。ミルクの優しい甘みと暖かさが、体に染み渡るようだった。
「私も……昔、たまに同じような夢を見てたの」
ぽつりと、話を始める葉月。僕はそれに何も言わずに耳を傾ける。
「大事な人が死ぬ夢、目の前で失う夢、そういうどうしようもなく怖い夢。それのせいで夜中に目が覚めた時には、よくこんな風にしてたの」
初めて聞いた話だった。でも、確かにこれは落ち着くなと感じた。
「あなたがそんな夢を見るのは、その……少し意外だったわ」
「そうかな?」
「ええ。あなたはいつも能天気というか、楽天家というか、そんなところがあるもの」
「それは少し心外だね」
いつもの調子でそう言う僕に、葉月は小さくため息をついた。
「でも、安心したわ」
「何で?」
「私達が付き合い始めてから、あなたがそうやって思い詰めたり、何かに不安になったりした所を、私は見たことがなかったから。必死に私から隠してるんじゃないかって、不安になることも、時折あったのよ」
ぎくりとした。確かに思い当たる節がある。僕は葉月に不安になってもらいたくなかったが故に、そういうことを、無意識のうちにしていたかもしれない。
でも、それがかえって葉月を不安にさせていたというのは、あまり笑えない話だった。
「それは……ごめん」
「別に謝ることではないわよ」
葉月は優しく微笑む。それは全てを暖かく包み込む女神のようだった。
「でも、少し何か言っていいのだったら、少しは人を頼りなさい。別にいつもとは言わないわ。私だって、とてもじゃないけどそんなことは出来ないって時がある。だけど、本来私達は、そういうことが許される関係なんだから」
「うん。ありがとう。今度からはそうするよ」
「ええ、そうして頂戴」
そしてホットミルクを飲み終え、テーブルとマグカップを片付けると、僕たちはまた布団に入って、そして眠った。今度はぐっすりと眠れた。

朝が来た。僕と葉月とで、いつものように朝食の準備をする。
「あの後はよく眠れた?」
「うん。昨日はありがとう」
朝食の用意が整う。いつものように向かい合って座って、手を合わせていただきますと言う。いつも通りの何気ない風景だ。
「……どうしたのよ? 顔に何かついてる?」
葉月が怪訝そうにそう言った。どうも僕は葉月のことを凝視していたらしい。食事中の人をじっと見るのはマナー違反だと聞くし、うっかりをしてしまった。
「いや、何と言うか、良い恋人に恵まれたなって」
「はぁ、あなたねえ……」
盛大に呆れられた。
「よくもまあ、そんな歯の浮くようなことばかりすらすらと言えるわね。あなたに気恥ずかしさという概念はないのかしら」
「たまたま思ったことをそのまま口にしてるだけだよ。まあ、言った後は少し照れるけどね」
いつもはこんなことあまり言わないのだけど、でも、こんなやり取りも僕達らしいなと思う。
「そんなものかしら」
「そんなものだよ」

〈了〉

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