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プロ雀士スーパースター列伝 近藤誠一 編(後編)

★前編  ★中編

【最年長になった近藤】

 「Mリーグ」の閉会式の会場に行ったがカネポンこと金本晃「近代麻雀」編集長の姿はなかった。
 彼から閉会式の様子を取材して書いてくれと依頼されたから来たのだが、LINEをしても既読にすらならない。
 軽く打ち合わせをするつもりだったが、どうせそんなものは無意味だ。実際にイベントが終わってみないと、何を書いたら面白くなりそうかなど分からない。あらかじめ「これをこう書こう」などと決めていたら面白くなくなる。
 会場には数百人規模の観客がつめかけている。この中からカネポンを探すのは不可能だと判断し、1人でセレモニーを眺めることにした。
 全選手がステージに上がった。
 前原雄大と沢崎誠が去ったことで全体的に若返った印象があった。最年長は59歳の近藤誠一だ。
 加齢やそれに伴う体力不足で「M」を去るのは、次は近藤になるのだろうか。
 私は1月中旬の出来事を思い出していた。
 Mリーグのスタジオから帰る時、たまたまエレベーターで茅森早香と近藤と一緒になった。同じチームの茅森は、いつも近藤を車で送っていくのだという。
 近藤はエレベーターの壁に手をついて、しんどそうにしていた。
 ちょっと近藤さん、大丈夫ですか?
 「いや、あんまり大丈夫じゃないんですよ。この前のイベントも途中で帰ることになっちゃって。情けないやら…」
 知らず知らずの内に、何かが近藤の身体と心にダメージを与えてきたのだろう。
 Mリーグ発足によって、良くも悪くも競技麻雀がプロスポーツになったのだ。
 これまでは「自分の麻雀」だったものが、他人に見られ、評価され、共有されるようになる。その内に、だんだん自分の麻雀は他人の手や顔や声に影響を受け、でいじくりまわされ、遂には完全に他人のものになる。最終的には自分自身そのものが商品となって他人の手にわたっていく。
 プロとはそういうものだ。そういった感覚を味わうのはプロの宿命なのだが、麻雀界のそれは急激すぎた。
 
 近藤さん、栄養ドリンク送ります。カツオの肝臓のエキスです。味はちょっとエグいですけど、飲めますか?

 突然、私が得体の知れないものを送り付けたら驚くだろうから、断りを入れたのだが、それでも素直に受け取るようなキャラの人ではない。でも「いいんですか」と近藤は素直に許可をしてくれた。それほど疲れていたのだろうし、私をある程度信用してくれていたのだろう。
 数日後、届いてすぐだろう、近藤からお礼のLINEが入った。

 実は1本300円以上するドリンクを30本も送ったのだが、もしこれで近藤が少しでも元気になってくれたら、それで良かった。私は40歳になった頃から10年間毎日飲み続けているが、おかげで風邪を引くことがほとんどなくなったし、身体が重くて動かないという日もなくなった。30代の頃よりも元気になっていると自分では思う。
 だが、この時点で近藤は「M」を去ることを決めていた。
 私はそれにまったく気づかなかったし、閉会式の壇上の姿を見ても「元気になって良かった」としか思わなかった。

【三度目の正直】

 近藤は兵庫県の出身で、父は学習塾を経営していた。その影響もあったのか、将来は教師になりたいと思うこともあった。
 だが、結局、大学は静岡大学工学部を選んだ。やりたいことは色々とあったが、最終的には「就職が良い」ということで電気工学関係の学部を選んだ。
 学生寮で麻雀ばかりやって、1年だけ留年した。
 実は在学中に「最高位戦」のプロテストを受験しようとしたことがあった。寮にあった「近代麻雀」を読んで、当時勝ちまくっていた金子正輝に憧れ、プロになりたいと思うようになった。実際に申し込みをしたが、ずっと返信がなかった。「何だ、麻雀プロの世界っていい加減だな」と思っていたら、テストの当日になって、アパートの大家さんが「そういえば郵便が届いてたよ近藤君」と持ってきたのが受験票だった。今さらもらっても意味がなかった。試験はすでに始まっていた。
 プロには縁がないと思って、卒業して大企業に就職した。工学部卒だということで、静岡にあった工場に配属された。電気製品や機械のエキスパートのように思われたが、本人はまったく興味がなかったし、分からないことだらけだった。
 これはもう無理だと判断し、すぐに辞めた。
 静岡は楽しかったから、地元で塾の講師をやろうと思った。その方が両親も安心するというのは分かっていたが、でも、やはり未練があった。
 どうしても、最高位戦に入りたいという気持ちが捨てられなかったから、再び願書を出した。今度は受験票をしっかりと受け取った。
 しかし、当時はどれだけ受験者が多くても2名しか受からないという狭き門だった。筆記や面接の試験を経て、残った受験生たちで麻雀対局をやって、上位2名だけがプロになれる。
 つまり「その日の運」が必要だったが、またしても近藤には「最高位戦との縁」がなかった。
 プロの道を諦めた近藤は実家に帰り、父が経営していた学習塾を継ぐことにした。静岡での生活は楽しかったが、両親の年齢も考え、地元に戻ることにした。
 学習塾を閉鎖しようと考えていた両親は、後継ぎができて喜んだ。
 ちゃんとした、まっとうな生活だった。
 だが、近藤には正直、物足りなかった。
 地元にはほとんど友達もいないし、遊ぶ相手もいない。数少ない友人と飲んだ時、そうこぼしたら「バイトでもしたら友達とかできるんちゃう? 塾の講師やりながらでも、できることあるんちゃう?」と言われた。
 人との出会いを求めて、その帰りにコンビニに寄って「FromA」というアルバイト情報誌を買うことにした。が、1冊もなかった。当時「フリーター」という言葉を生み出すほど影響力のあった情報誌が棚にないというのは、かなり珍しいことだった。
 コンビニに入って何も買わずに出るのが嫌だった近藤は、仕方なしに別のものを買うことにした。
 今の人にとっては不思議な行動かもしれないが、約30年前の関西人にとって「冷やかしはしたくない。それがたとえコンビニであっても」という感覚は分からないでもない。とにかく、近藤は雑誌の棚に「近代麻雀」を見つけたのだった。
 人との出会いを求めるため入ったコンビニで、なぜか「近代麻雀」と再会した。

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