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馬場裕一さんと寺内康彦さんは同じ日の朝に亡くなりました

【訃報を聞いた朝】

 7月28日は日本プロ麻雀連盟の入会テストで、私は面接官だった。13時に新橋に行けばいいので、そんなに早く起きる必要はなかったが、40歳を過ぎると自然に目が覚めるようになってくる。この日も8時半ごろ起きてスマホを見た。例のごとくLINEが何通かきているのでチェックすると、ケネス徳田からのメッセージがあったからタップする。

 ああ、ついに。

 たぶん、そういうことだと覚悟はしていたから、驚かなかった。
 病院は自宅から近いのだが、一度帰ってきてスーツに着替える時間はなさそうだから、大急ぎで支度をした。アプリでタクシーを呼んで、髭をそってネクタイを締める。普段ネクタイなどしないから、うまくできなくてもどかしい。
 外は異常な暑さだった。
 馬場裕一さんもこの暑さに参ってしまったのかもしれない。そんなことを思いながら車に乗り込んだ。
 いつもの病室と同じフロアの待合室みたいなところに徳田と親族がいた。「お悔み申し上げます」と、形通りの挨拶をしたら、徳田が私を指さして「葬儀屋さんだと思ったでしょ」と、親族に対し冗談を言う。
 普通なら非常識だと怒られるような言動だが、彼はなぜか許される。私よりも徳田の方が馬場さんの身の回りのことをやっており、親族からも信頼を得ていた。ちょっと変わっているけど親切で良い人だと思われていたのだろう。
 徳田のやったことはスルーして、馬場さんの病室に向かった。
 何度か見舞いに来ていたので、闘病の末やせ細った馬場さんの姿を見るのは慣れていたが、やっぱり心が辛くなる。
 もう二度と会話をすることができないという寂しさはあったが、馬場さんの立場になって考えたら、痛くないし苦しくないし、怖くないのだから、むしろ楽になれて救われたのかもしれない。
 手を合わせて、心の中でお礼を言った。
 それと、出てきた言葉は「おつかれさまでした」だった。

 私にとって馬場さんは、会社の上司という存在ではなかった。
 師匠と弟子、というのもちょっと違う。恩人ではあるけど師匠ではない。
 晩年、弱ってしまった馬場さんの面倒を、徳田と一緒に最期までみると覚悟した時は、師匠に仕える弟子になったような気持ちだったが、元気な頃の馬場さんに対して「師匠」と言ったことも思ったこともない。
 一番しっくりくるのは「戦友」だ。
 業界の大先輩だし「麻雀企画集団バビロン」のリーダーではあるのだが、だからといってかしこまっていると、馬場さんは嫌がる。
 お互いをリスペクトしつつも、いざ「戦」となったら遠慮なく利用しあって、時には年齢やキャリア関係なく「作戦」のためなら仲間を「駒」のように扱う。
 馬場さんはそういう関係性を好んだ。

【もう一人の恩人】

清水香織

 7月23日に、清水香織と一緒に馬場さんの見舞いに行った。
 馬場さんの病状を積極的には知らせていなかったのだが、噂を聞いて見舞いに行きたいと連絡をくれる人もいた。
 私が面会に行った時は、2回連続で話ができなかった。体調もあっただろうが、薬の影響で眠っていて起きなかったのだ。
 最初は連盟の森山茂和会長と一緒に行ったが、私のことも、森山さんのことも分からないようだった。

森山茂和

 2回目は、渡邉浩史郎と行ったが、目を覚ますこともなかった。私は「寝てるし聞こえないよ」と言ったのだが、浩史郎は泣きながら馬場さんに感謝の気持ちを伝えていた。
 3回目に森山さんと行った時に、ちゃんと話すことができた。

「森山さん、何とか生きてます。森山さんは、麻雀界の光ですから、お身体には気を付けてください。森山さんは、光ですから」

 自分がいなくなった後の麻雀界を心配して、そう言っていた。
 森山さんは寂しそうにしながらも、馬場さんを励ましていた。
 2人の関係は45年以上にもなる。
 45年前からずっと、森山さんは馬場さんのことを弟分のように可愛がっていた。お互いに信用していたし、信頼していた。
 清水が連絡をくれたのは、この3回目の少し後だった。体調も徐々に回復しており、短い時間なら会話もできるようだったので、面会の手続きの仕方を教えたのだが、彼女は「黒木も一緒に行こうよ」と言ってきた。
 私は「その日はカメラマンの寺内康彦さんの見舞いに行く約束だから、悪いけど1人で行って」と返したのだが、清水は寺内さんの病状を知らず、驚いて「寺内さんのお見舞いも行く」と言い出した。

本田朋広プロを撮影する寺内康彦カメラマン


 結局、まず馬場さんの病院に行って、その後、寺内さんのところに見舞いに行くことになった。お見舞いのハシゴをしたのは、人生で初だった。
 寺内さんはただのカメラマンじゃなくて、麻雀カメラマンと言っても過言ではないぐらい、麻雀にまつわる写真を撮ってきた。
 私が「バビロン」に入った頃、寺内さんはすでに「近代麻雀」で仕事をしていて、右も左も分からない私に仕事を教えてくれた。
 ライターはカメラマンと組んで仕事をすることも多い。ライターがカメラマンの仕事を理解していないと、現場で足手まといになるし、良い原稿を書いて良いページを作ることもできない。
 寺内さんは話し好きで世話好きということもあって、私に色々なノウハウを教えてくれた。
 今と違って撮影はすべてフィルムで、素人が使う、いわゆる「ネガ」ではなく「ポジ」のフィルムを使っていた。ポジフィルムはネガのように反転されていないから、フィルムを拡大すればそのまま雑誌などにも使える。
 当時は、下から光を当てて、上からルーペを当てて写真をチェックするのが常識だった。
 加工アプリもなければ、撮影してすぐチェック、ということもできない。カメラマンが「撮れた」と確信したのを信用して「OK」とするしかなかったのだ。
 もちろん、照明などを当てて、具合を見るためにポラロイドのフィルムは使っていた。それでその場でチェックをするが、色味などはポジフィルムで撮影すると、また違った。本当の色は、最後に印刷してみるまで分からなかった。
 時代は変わって、今はデジタルでお手軽になった。カメラマンの仕事は楽になったが、同時に素人でもカメラマンのまねごとができるようになった。
 出版不況で経費を削減するとなった時、真っ先にカメラマンの仕事が削られた。本当に大切な写真メインのページ以外は、編集者やライターがスマホで撮影したものでこと足りるようになった。
 それでも家族を養わねばならない寺内さんは、アルバイトをしながらも「カメラマン」であり続けた。
 「最強戦」の写真はずっと寺内さんが撮り続けたし、寺内さんの話好きは変わらず、現場では喋りすぎなぐらいに喋っていた。
 私がnoteを始めて、順調に定期購読のお客さんを増やしていると聞いて「noteについて教えて」と言ってきた。
 私は「寺内ちゃんの場合はYouTubeの方が良いと思う」とアドバイスしたのだが、寺内さんは結局noteをやり始めた。
 「美麻女フォトブック」という題名で、女性プロたちのデジタル写真集を販売しているので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。

【清水香織の意外な一面】

 病室でも寺内さんはよく喋った。私と清水の顔を見るなり泣きながらお礼を言って、ご家族に紹介してくれた。
 清水はずっと寺内さんの手を握りながら「うん、うん」とうなずいて話を聞いていた。

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